- 日露戦争を終結させたポーツマス条約とは
- ポーツマス条約で日本の得られたもの
- ポーツマス条約に至った日露戦争の背景
- 日清戦争による朝鮮半島と遼東半島の利権
- ロシアの南下政策による朝鮮半島での日本との対立_三国干渉
- 日本国内の戦争機運の高まり
- 日露戦争開戦後は一時苦戦も最終的に日本の勝利が続く
- ロシアの「血の日曜日事件」の勃発と財政逼迫
- 日本の財政も破綻寸前になっていた
- 同盟国イギリスのアメリカ大統領ルーズベルトへの和平橋渡し
- 日本もロシアも介入を歓迎して会議に参加
- ポーツマス条約の締結交渉は難航
- 日本の財政破綻を知らない国民は日清戦争のように賠償金を期待していた
- 全権大使小村寿太郎の判断で条約締結
- ポーツマス条約の結果、日本国内の反応は?
- 国民の不満の爆発_日比谷騒動
- 朝鮮半島の利権と遼東半島から中国東北部に伸びる南満州鉄道の割譲
- ポーツマス条約の結果、何が起こったのか
- 日露戦争とポーツマス条約の結果は日本にとってよかったのか?
この記事の目次
日露戦争を終結させたポーツマス条約とは
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1905年イギリスのポーツマスでアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で日露戦争の講和会議がおこなわれ、そこで調印された和平条約がポーツマス条約です。
日本は戦局を有利に展開してはいたものの、実際には財政が破綻寸前にあり、これ以上戦争を継続することは難しい状況にありました。しかし、国民にはその状況は知らされていません。また、一方のロシアも国内で「血の日曜日事件」が起こったように、政治的にも財政的にも戦争は続けられる状況にはなかったのです。
そのため、イギリスと当時の外務大臣であった小村寿太郎を通してアメリカ大統領ルーズベルトが介入して講和会議が提案されたのは両国にとってわたりに船でした。ところが、日本にとっては、ロシアの惨状は予想以上であり、国民に期待された賠償金は得られず、厳しい講和条約となってしまったのです。そのため、全権大使として会議に臨み、条約に調印した小村寿太郎は帰国後に国民や新聞などで強い批判を浴びることになりました。実際に日比谷騒動と言われる国民の暴動が起きています。
ポーツマス条約で日本の得られたもの
しかし、この日露戦争とポーツマス条約を通して、日本は欧米列強に勝ったことが示され、先進国の仲間入りを果たすことができました。賠償金は得られなかったが、軍部が望んでいた朝鮮半島、中国東北部における利権を得ることで大陸進出が可能になったのです。ただし、それ故に日本は軍部の力が強まり、最終的には第二次世界大戦にまで突入することになり、ひどい敗北を味わうことになってしまいました。
この日露戦争とその講和条約であるポーツマス条約について詳しく見ていきましょう。
ポーツマス条約に至った日露戦争の背景
日露戦争は、日本の大陸への進出野望とロシアの南下政策がぶつかり合って起こったといえるが、直接のきっかけは日清戦争の講和条約でした。日清戦争の講和条約である下関条約で遼東半島が日本に割譲されたことに対してロシアがドイツ、フランスとともに三国干渉をおこなったのです。その結果、日本は遼東半島を清王朝に返還せざるを得なくなったことで、日本国内に反ロシアの世論が高まったことが日露戦争につながりました。
日清戦争による朝鮮半島と遼東半島の利権
遼東半島は、朝鮮半島と大陸との根元にあり、ここからは中国の東北部(現在の黒竜江省)のハルピン(日本名長春)に向かう南満州鉄道が通っており、中国大陸への進出が可能になる場所でした。そのため、日本と同様中国東北部から朝鮮半島への南下政策を狙っていたロシアにとっても遼東半島は極東での最重要地点といえたのです。
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ロシアの南下政策による朝鮮半島での日本との対立_三国干渉
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そのため、日本が遼東半島を領土とし利権を得ることはロシアにとっては許すことのできない出来事であり、結果的に中国進出を狙っていたドイツ、フランスと一緒に三国干渉をおこなったのです。ドイツは、中国の山東半島の青島に植民地(租借地)として割譲を受けていました。また、フランスは、19世紀半ばのアロー戦争後の北京条約で清王朝から多額の賠償金とベトナムの宗主国として認めさせるなど、南方からの中国大陸進出をうかがっていたのです。
日本国内の戦争機運の高まり
三国干渉は明らかにロシア主導でおこなわれ、利害がぶつかることが明らかであったことから、日本国内ではロシアに対する批判と対ロシア戦争の気運が高まることになりました。
この当時の日本は、日清戦争の賠償金によって重工業化による産業革命を実現してしていたものの、財政的には賠償金を使い果たして苦しくなっていっていたのです。そのため、陸軍などの軍部は対ロシア戦争を主張していたが、政府から下野していた伊郷博文などの財政状態をよく知る政治家たちのなかには戦争に反対する者も多くいました。伊藤博文は単独でロシアに渡り、和平交渉をおこなったが、結果的にはロシアの皇帝ニコライ2世によって却下されてしまいます。そのため、ロシアに対して警戒感の強かったイギリスとの同盟交渉がおこなわれ、それに成功すると一気に戦争気運は高まり、ついに日露戦争に突入したのです。
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日露戦争開戦後は一時苦戦も最終的に日本の勝利が続く
当初、遼東半島先端の旅順をめぐる攻防では攻めあぐみ、時間がかかったものの、指揮官が乃木将軍から児玉源太郎中将に交代して旅順要塞を攻略することができました。その結果、日本が有利に戦局を展開することが可能になり、日本海海戦で日本がバルチック艦隊を撃破してからは日本の勝利が見えたのです。