三国時代・三国志中国の歴史

三顧の礼の意味と由来は?類語や誤用の例は?歴史的背景もわかりやすく紹介!

「三顧の礼(さんこのれい)」という言葉だけなら、耳にしたことがある方も少なくないかと思います。ざっくり言えば、三回訪問してお願いすることですね。ところで、これが中国の故事に由来することはご存知でしょうか?「三国志」の中でも特に有名で人気のある逸話なんですよ。では、この記事では、三顧の礼の由来についてわかりやすく解説していきたいと思います。

1. 「三顧の礼」の意味

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「三顧の礼」とは、文字通り、三度相手のもとを訪れ、頭を下げて頼むことというのが本来の意味です。礼儀を尽くして優秀な人材を招く・破格の待遇で迎えるという意味合いが込められており、目上の者が目下の者に対して頼むことでもあります。日本でもポピュラーな「三国志」に由来することもあり、現代でも使われることが多いですね。特に、ビジネスシーンにおいて見かける言葉でもあります。

1-1. 「三顧の礼」の使い方

三顧の礼という言葉は、優秀な人材に頭を下げ、破格の待遇で自分のもとに迎えるという意味があるため、ライバル会社から自分の会社へ招くときなどに使われることが多いです。

例えば、

「実績を認められた彼は、ライバル会社から三顧の礼で迎えられた」

などですね。

また、

「あの監督は三顧の礼で迎えられたが、結果を残すことができなかった」

などというふうにも使えます。

1-2. 「三顧の礼」の類義語

三顧の礼の類義語としては、「草盧三顧(そうろさんこ)」という言葉があります。草盧とは、草ぶきの粗末な庵という意味で、そこを三度訪れて頭を下げ、頼み込むということですね。後でご説明しますが、劉備(りゅうび)が諸葛亮(しょかつりょう)の住む草盧を三度訪れたことから、三顧の礼を「草盧三顧」と表すこともあるそうです。

また、「三徴七辟(さんちょうしちへき)」という言葉も類義語として挙げられることがあります。「徴」も「辟」も「召す・呼び出す」という意味があり、目上の者が何度も召し出すということで、三顧の礼の類義語となるというわけです。

1-3. 「三顧の礼」の対義語は?

三顧の礼にはっきりとした対義語は存在しないようです。

しかし、誤って使ってしまうシーンがあるので、それについてご説明しましょう。

三顧の礼で大事な点は、「目上の者が目下の者に」というところ。つまり、その逆はないのです。間違えないようにしましょう!目上の人のところに足しげく通ってお願いするというのは、三顧の礼にはなりません。

また、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の故事「カノッサの屈辱」が、三顧の礼とは似て非なるものだとよく取り上げられます。これは、神聖ローマ皇帝がローマ教皇から破門されたことを許してもらうため、教皇のもとに出向き、許してもらうまで三日三晩立ち続けたというものですが、これは「許してもらうために、屈辱的ではあるが礼を尽くす」ということなので、三顧の礼とは意味合いが違うのです。

2. 三顧の礼は「三国志」から

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三顧の礼とは、地位が上の者が下の者のところに三度出向いて、相手に頭を下げて頼むことです。現代ではビジネスや政治の場面でも使われる言葉ですね。

この元ネタとなったのが、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が鼎立した中国の三国時代(184年~280年)に起きた出来事です。後に蜀を建国することになる劉備(りゅうび)が、諸葛亮(しょかつりょう/諸葛孔明)を家臣として迎えるために三度訪れたという話なのですが、その詳細について見ていきましょう。

2-1. 三顧の礼に至るまでの時代背景

当時、中国は後漢(ごかん)が末期状態にあり、農民反乱などが多発して混乱した状態にありました。その中で頭角を現したのが、後に魏を建国する曹操(そうそう)です。彼は華北(かほく/中国北部)を制し、南へと侵攻のチャンスをうかがい始めたところでした。

一方、この逸話の主人公のひとりとなる劉備はといえば、また確たる勢力基盤を持たず、曹操に敗れては逃げるといったことの繰り返しでした。やがて彼は荊州(けいしゅう/河南省付近)に居城を得たのですが、この時、彼のもとに出入りしていた徐庶(じょしょ)という男から、諸葛亮という実に聡明な人物がいるとの噂を聞いたのです。

2-2. 劉備と諸葛亮

まず、劉備という人物についてご説明しておきましょう。

劉備は、後漢末期の農民反乱である黄巾の乱(こうきんのらん)の鎮圧に功績を挙げた人物です。関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)といった豪傑を義兄弟とし、やがて諸葛亮と出会って「天下三分の計」を献策され、曹操や孫権(そんけん)らと拮抗する勢力に成長していきます。そして蜀を建国し、初代皇帝となるのです。

諸葛亮は、劉備の軍師として蜀を支え、最強軍師の誉れ高い人物。後に政治の一切を取り仕切る丞相(じょうしょう)となり、劉備に固い忠誠を捧げました。劉備の死後は、弱体化する蜀を懸命に支え、先帝・劉備の血脈を守ろうと奮闘し、後世にまで忠義の人として賞賛を受けるようになります。

諸葛亮に出会わなければ劉備の隆盛はなく、劉備に出会わなければ諸葛亮が世に出ることもなかった…お互いにとって、欠かせない存在だったのです。

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