室町時代戦国時代日本の歴史

戦国最強の軍師10選!一番すごいのは誰?秀吉に仕えたのは?一挙紹介

6-1. 主君・伊達政宗の幼少期から仕えた存在

片倉景綱は、政宗の小姓となると、生涯、主君に尽くし続ける家臣となります。一説には、政宗が疱瘡によって目がつぶれてしまったこと気に病み、内向的になっていたところ、景綱がその目をえぐってコンプレックスを取り除いたとも言われていますね。

若かりし政宗が敗北を喫した人取橋(ひととりばし)の戦いでは、景綱は政宗のふりをして敵を引きつけ、その間に政宗を逃がしています。とにかく、何が何でも政宗ファーストなのが景綱の特徴で、政宗より先に男児を設けたときには、その子を殺そうとして政宗に止められたこともありました。

6-2. 政宗の迷いを断ち切る助言をした景綱

景綱の助言は、政宗にとってはもっとも重みのあるものだったようです。

豊臣秀吉が小田原征伐を開始し、諸将に小田原への参陣を要求すると、東北地方を制覇する直前だった伊達家は、徹底抗戦派と恭順派に分かれて意見が対立してしまいました。

この時、景綱は「秀吉の軍勢はハエのようなもので、いくら叩いてもあとからどんどん沸いてきます。つまり、何度かは勝つことができても、結局数に負け、敵うわけがありません」と政宗に進言し、政宗はこれを受け入れて小田原に赴き、秀吉からなんとか許されたのです。

なお、秀吉は景綱の才能に惚れ込み、ヘッドハンティングをかけました。しかし景綱は丁重に断り、政宗への忠義を貫いています。

6-3. 戦の行く末を予言した眼力の持ち主

景綱は、晩年は病気にかかり、大坂の陣には息子を代わりに派遣しました。しかし百戦錬磨の眼力は衰えておらず、「一度は和睦し、堀を埋めたりすることになるだろう。しかし必ず再戦するはずだから、一戦目は兵を温存し、ほどほどにやるがいい」と息子に助言したそうです。その予言通り、大坂の陣は冬の陣と夏の陣の二戦に分かれ、冬の陣の和睦後には大坂城の堀が埋められることとなりました。

軍師として、側近として、景綱が政宗にとってなくてはならない存在だったことはいうまでもありません。

7. 戦国最強の智将・太田道灌

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戦国時代最強の智将との誉れ高いのが、太田道灌(おおたどうかん)です。扇谷(おうぎがやつ)上杉家に仕え、内政と軍事を取り仕切った軍師的な存在でした。では、彼についてご紹介しましょう。

7-1. 戦わせれば必ず勝つ!知謀に長けた名将

太田道灌は、足利学校で学んだその鋭い頭脳を生かして才能を発揮しました。幼い頃から聡明で、父の言うことにも理屈で対抗したと伝わります。

関東の内乱である享徳(きょうとく)の乱、それに続く長尾景春(ながおかげはる)の乱では次から次へと敵を相手にし、各地を転戦して相手を撃破し、八面六臂の活躍を見せました。そんな戦いの中でも、彼は学んだ和歌を引き合いに出して味方を鼓舞するなど、実にインテリジェンスに満ちた武将であり、扇谷上杉家の家臣の中でも頭ひとつ以上飛び抜けた存在だったのです。

7-2. 有能すぎて主君に危険視され、暗殺される

道灌の活躍により扇谷上杉家は勢力を回復していき、彼の名声は天下に轟きました。しかし、これが主君・上杉定正(うえすぎさだまさ)に警戒感を抱かせ、他の家臣たちからは嫉妬を買ってしまったのです。また、道灌は自分が正当に評価されないことを不満に思っていたこともあり、主君との間には亀裂が生じてしまいます。

そして、彼は主君の館に招かれた際、風呂から上がったところを刺客に襲われ、殺害されてしまいました。死の間際に「当方滅亡(自分が死ねば扇谷上杉家も滅びる)」と叫んだと伝わります。その言葉どおり、彼の死後、上杉家は内乱が再燃し、衰退していくこととなるのです。彼こそが扇谷上杉家そのものだったのかもしれません。

8. 動物の本能を利用して勝利した淡河定範

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淡河定範(おうごさだのり)という軍師は、あまり有名ではありません。しかし、彼は軍師と呼ぶにふさわしい奇策で敵をかく乱し、勝利を呼び込んだ名将でした。いったいどんな策を使ったのか、ご紹介しましょう。

8-1. 別所氏に仕えた豪族・淡河氏

淡河定範は播磨の豪族で、別所長治(べっしょながはる)に仕えていました。この別所長治は織田信長にわりと早くから従っていたのですが、天正6(1578)年、突如として信長に反逆したのです。別所氏の反乱により、織田勢力下に入ったはずの播磨は混乱に陥りました。そして、信長は攻撃目標を中国征伐よりも先に別所氏に定めたのです。長治は三木城に籠城し、三木合戦が始まりました。

この時、定範がいた淡河城には、秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)の軍勢が攻め込んできました。黒田官兵衛の説得がありましたが、定範はそれに応じることなく抗戦を選びます。

そして彼は、城の防備を固めると同時に、「淡河城では一族郎党が外に出て作業をしている」との噂を流させ、その一方で「馬を一頭連れて来たものには300文与える」と触れ回り、近隣の馬をたくさん集めたのです。

8-2. 馬の本能を利用して敵を撃退

噂を信じた豊臣軍は、城が手薄になっていると考えて攻め込んできました。しかし、定範はこれを好機とばかりに、集めた馬を一斉に外に放ったのです。

実はこの馬たちはすべてメスで、敵の騎馬は皆オス。このため、豊臣勢の馬たちはメスを見て興奮し、言うことを聞かなくなってしまいました。そこを定範は叩き、豊臣勢を退却させたのです。

しかし、戦況は圧倒的に不利のまま。定範は淡河城を焼き払って主君のいる三木城に駆け付けると、秀吉軍と最後まで戦い続けました。残り5人にまで追いつめられると、彼は皆で刺し違えた風を装って倒れ伏し、敵が油断して近づいてきたところを返り討ちにしたそうです。そして、そのままそこで切腹したのでした。

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