即位までの道のり
1034年、尊仁(たかひと)親王はのちに後朱雀天皇となる敦良親王の第二皇子として誕生しました。摂関家を直接の外戚としない尊仁親王は皇太弟にたてられるも、摂関家を憚った人々から冷たく扱われます。尊仁親王の後ろ盾となったのは藤原頼通の異母弟である藤原能信(よしのぶ)でした。
藤原氏の摂関政治
平安時代、藤原氏は摂政・関白の職を独占することによって政治の実権を握りました。藤原氏は天皇家に娘を嫁がせ后妃とし、娘が産んだ子を天皇に即位させます。
天皇の后妃の一族を外戚といいました。外戚となった藤原氏は即位した天皇が幼ければ摂政として、成人していれば関白として天皇にかわって政治を行います。こうして、平安時代に藤原氏が行った政治を摂関政治といいました。
866年に藤原良房が清和天皇の摂政になったのが摂関政治の始まりですね。その後、藤原基経が阿衡の紛議で宇多天皇に勅書を撤回させたことで関白の職掌を確立します。
摂関政治を代表する人物が藤原道長でした。道長は摂政・関白に準じる内覧の地位も含めると30年間、政権のトップにあり続けます。道長の子である頼通は道長よりも長い50年間にわたって関白として朝廷のトップであり続けました。
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摂関家による冷遇
1034年、のちに後三条天皇となる尊仁親王は敦良親王の第二皇子として生まれます。摂関家を直接の外戚としない尊仁親王は有力な皇位継承者とはみなされず、廷臣たちは尊仁親王から距離を置きました。
後朱雀天皇が亡くなる直前、遺言として尊仁親王を次の天皇である後冷泉天皇の皇太弟とすることを決めても、廷臣たちの態度は変わりませんでした。
当時、皇太弟の地位は現在ほどしっかりしたものではありません。状況の変化によって、皇太弟が失脚することは珍しいことではありませんでした。
側近として後三条天皇を支えた大江匡房(おおえのまさふさ)は、『江談抄』で、藤原頼通は皇太子(東宮)が持つべき「壺切御剣」を頼通が尊仁親王に23年間も献上しなかったことが書かれています。頼通は自分の娘を後冷泉天皇の后としましたが、男子に恵まれませんでした。
尊仁親王の後見人となった藤原能信
宮廷貴族たちにとって、尊仁親王に近づくことはリスクがあることでした。摂関家のトップである藤原頼通は明らかに皇太弟の尊仁親王の即位を望まず、後冷泉天皇と自分の娘である嬉子に子が生まれることを待ち望んでいます。人事権を持つ関白の藤原頼通の意に沿わない行動は避けたいと考えるのが宮廷人として当然のありようだったでしょう。
しかし、藤原能信という人物は頼通の不興を被ることを承知で尊仁親王の後見人となります。能信は頼通と同じく藤原道長の子でした。しかし、頼通と比べ能信の母親は父がすでに失脚した源高明だったこともあって、頼通よりも出世が遅れています。
1013年に、能信は頼通と口論したため、父である道長の不興を被っていました。生来、気が強かったとされる能信にとって、不遇な尊仁親王の後見人として頼通と争うのは苦でなかったのかもしれませんね。能信は後三条天皇が即位する前に亡くなってしまいます。
後三条天皇の政治
1068年、後冷泉天皇が後継者となる男子を残さないままこの世を去ったため、尊仁親王が天皇の位につきました。これが、後三条天皇です。後三条天皇は、関白を置かず、学者の大江匡房をブレーンとして親政を行いました。後三条天皇が力を入れたのが荘園整理。これにより、摂関家は経済的なダメージを負います。宣旨枡を制定し、度量衡を整えることも行いました。また、東北地方の北端まで兵を送り蝦夷を従わせます。