9. 忠義を仇で返された悲劇の軍師・八柏道為
出羽(山形県・秋田県)の小野寺氏に仕えた八柏道為(やがしわみちため)は、主家を全盛へと導いた立役者でした。しかし、彼の忠義心は仇となって返ってくることとなります。悲劇の軍師となった彼についてご紹介しましょう。
9-1. 小野寺氏の全盛時代の立役者
八柏道為は、小野寺景道(おのでらかげみち)に仕え、城を追われていた主君を復帰させて勢力拡大に貢献し、小野寺氏の参謀となります。全盛期を迎えた小野寺氏は、東北地方でも指折りの勢力となりました。その後、景道の子・義道(よしみち)に仕えた道為は、変わらぬ忠誠を捧げます。最上義光(もがみよしあき)との戦いでは、木の間に鉄砲の名手を潜ませておき、敵を撃退し、最上の進出を阻んだのでした。
また、道為は武士としての心得を部下に説き、「敵の使者をむやみに切るな」、「味方の不利を見て逃げれば死罪」など、武士らしさを失わない掟を定めています。
9-2. 内通の噂を立てられ、主君によって殺害される
ところが、最上義光の策略により、道為が最上に内通しているという噂を立てられてしまいます。そして主君・義道は、道為を信じるよりもその噂を信じたのです。文禄元(1595)年、道為は城に呼び出され、門の直前で殺害されてしまったのでした。最上義光はこの機に乗じ、道為の親族が守る城に攻め込み、彼らをも滅ぼしたのです。
道為の死後、小野寺氏は傾く一方となりました。義道は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、戦後は改易となり、遠く石見・津和野(島根県)へと流されます。もし道為が生きていれば、関ヶ原の戦いでの選択も変わったのかもしれません。
10. 大友氏を支えた「軍配者」角隈石宗
大友氏の全盛期を支えた角隈石宗(つのくませきそう)は、文武両道、天文や気象、占いにまで通じ、人格者だったと言われるスーパー軍師です。彼がいたからこそ、大友氏は九州で一大勢力を築くことができました。彼の働きはどのようなものだったのか、ご紹介しましょう。
10-1. 軍学・天文に通じた超人
角隈石宗は軍略を編み出す軍師という役割だけではなく、「軍配者(ぐんばいしゃ)」という立場でした。これは、天文や気象学を修め、あらゆる事象を考慮に入れて戦に臨む合戦のスペシャリストだったのです。その能力は、主君である大友宗麟(おおともそうりん)や義統(よしむね)、粒ぞろいの大友家臣団の誰もが認め、尊敬するものでした。
カラスを呼び寄せたり、スズメが止まっている木の枝を、スズメを動かすことなく折ったりしたなど、超人的な逸話も多く伝わっています。
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10-2. 進言を受け入れられず…戦場に散る
大友宗麟は、前半の治世は名君でしたが、後半になると暴君化していきます。家臣団が反対する中、無謀な遠征を強行するなど、石宗の言うことにさえも耳を貸さなくなっていました。
そして天正6(1577)年、宗麟は島津氏を相手に出兵し、耳川の戦いへと向かいます。この時、石宗は彗星の発生や方位から、出兵は凶であるとして宗麟を止めましたが、やはり受け入れられませんでした。
耳川にて、突撃を主張する大将に、石宗は「それでは敵の思うつぼだ」と反対します。かつ、「不吉な気がわが軍を覆っているから、これでは我々は滅ぶ」と言いましたが、大将はそれを嘲り、突撃を命じたのです。石宗は覚悟を決め、軍配の奥義書をすべて焼き捨て、突撃に加わりました。
そして、石宗の言ったとおり、大友勢は島津の伏兵に襲い掛かられ、大敗を喫したのです。乱戦の中、石宗もまた命を落としました。その死を聞いた敵将にさえ惜しまれたと伝わっています。
いくら軍師が素晴らしくとも、主がそれを使いこなせなければ、石宗のような宝はあっさりとこの世から消えてしまう…そのはかなさが、涙を誘いますね。
それぞれの個性が強いからこそ、最強軍師は魅力的!
軍師はただの武将以上に個性が強かったことがお分かりいただけたかと思いますが、やはり個性を必要とされたのだと思います。ふつうなら考え付かないようなことをひねり出す頭脳と、それにまつわるエピソードを知ると、軍師たちがとても気になる存在になりませんか?ぜひ、お気に入りの軍師を見つけてみてくださいね。