イギリスヨーロッパの歴史

5分でわかる「フォークランド紛争」原因は?複雑な領土問題をわかりやすく解説

今から40年近く前の1982年、イギリスとアルゼンチンとの間で紛争が始まりました。いや紛争どころか戦争と呼んでもおかしくないもので、1つの諸島を巡って熾烈な争奪戦が展開されたのです。その名は「フォークランド紛争(マルビナス紛争)」。聞いたことがある方もいらっしゃると思いますが、そこには複雑な領土問題が絡んでいました。また近代兵器の実験場だと表現する人もいますね。今回はフォークランド紛争を誰にでもわかりやすく解説していきたいと思います。

1.フォークランド諸島でなぜ領有権争いが起こった?

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フォークランド諸島は大西洋に浮かぶ非常に小さな諸島ですが、なぜこんなところで紛争の火種が起こったのでしょう?そこには複雑な歴史的経緯がありました。これは日中間の尖閣諸島問題にも共通していることなのです。

1-1.領土問題の火種は「尖閣諸島問題」と同じ

フォークランド諸島問題と尖閣諸島問題は、経緯は違えど本質的にはよく似た領土問題のケースとなっています。すなわち誰がいち早く発見し、誰が実効支配しているかです。

尖閣諸島に人は住んでいませんが、周辺海域には中国公船が毎日のように出没し、「中国が実質的に支配している」ということをアピールしていますね。

また日本側も明治時代になってから日本領として宣言し、当時の清国に対しても通告していると主張しています。

フォークランド諸島問題も同じことです。アルゼンチンの宗主国だったスペインが発見したからアルゼンチンのもの。いっぽう諸島を実効支配しているのはイギリスだから、これはもう完全にイギリスのものだと双方言い合っているのですね。

1-2.フォークランド諸島ってどこにある?

フォークランド諸島の位置
TUBS 投稿者自身による作品 このW3C-unspecified ベクター画像Adobe Illustratorで作成されました. This file was uploaded with Commonist. This vector image includes elements that have been taken or adapted from this:  South Georgia and the South Sandwich Islands in its region.svg (〜によって TUBS)., CC 表示-継承 3.0, リンクによる

地図を見てみると、フォークランド諸島は大西洋の南西の端に位置していて、ほとんどアルゼンチンがある南米大陸のそばにあるような感じですよね。

これだとイギリス本国からとてつもなく離れていますし、アルゼンチンの領土だといっても全くおかしくありません。「これじゃ、イギリスが領有権を主張してもダメなんじゃないの?」と普通は思うでしょう。

しかし、約3千人程度いる島民はほぼ全てがイギリス系の人々。現在もイギリス領となっていて、アルゼンチンが手出しできないようになっています。

それでは次に、なぜイギリスがフォークランド諸島を領有するに至ったのか?その歴史の秘密を探っていきましょう。

1-3.スペインによって発見されたフォークランド諸島

ちなみに、領有権を主張するためにはどこが先に発見したか?どこが実効支配してきたのか?ということが非常に重要になります。

尖閣諸島の場合、中国が先に発見したという説が有力ですが、実際に支配していたのは日本であり、日本側に分があるという感じでしょうか。

フォークランド諸島の場合、1520年にマゼランから分かれて行動したゴメスが、世界一周の航海の中で発見したとされていますね。ゴメスはポルトガル人だったものの、実際に航海を成し遂げたのはスペイン船です。

Map of America by Sebastian Munster.JPG
パブリック・ドメイン, リンク

いっぽう、イギリスの航海者キャベンディッシュに随行したデイヴィスもフォークランド諸島を発見しており、命からがらアイルランドへたどり着くものの、しっかりその記録は残していたそう。

ちなみにスペインから独立した旧植民地がアルゼンチンですから、「かつてスペイン船が発見したフォークランド諸島こそがわが領土だ。」と主張しています。

イギリス側も負けじと「いいや、デイヴィスが先に発見したものだ。しっかり記録も残ってるじゃないか!」と主張。

どちらも平行線のまま今日に至っているのです。では次に発見したのはどちらともはっきりとしていないので、実効支配していたのはどっちなの?という話をしましょう。

1-4.イギリス、スペイン、フランスで争奪戦となったフォークランド諸島

では先にフォークランド諸島での主権争いの話をしましょう。

1764年にフランスが東フォークランド島に入植を始め、その翌年にはイギリスが艦隊を派遣して今度は西フォークランド島の領有を宣言しました。

またスペインも負けじと入植を開始し、ここに3か国三つ巴の領有争いが展開するかに見えました。

ところがフランスは、さすがに離れた島々の維持は難しいということでスペインに領有権を返上し、さっそくスペインは兵隊を上陸させて武力をもって諸島を占領してしまったのです。

1-5.一度は諸島から撤退したイギリス

アメリカ独立運動のゴタゴタもあって小さな島に構っていられないイギリスは、あっさりとスペインの領有権を認めてしまったのでした。

イギリス本国からフォークランド諸島までの距離はなんと1万キロ以上!高速船も飛行機もない時代でしたから、その管理維持は非常に難しかったことでしょう。

しかし勝者のはずのスペインも同様でした。島の維持が大変すぎたため、その後撤退していますね。

そして1816年に独立を果たしたアルゼンチンは、「我が国はスペインから独立を果たしたわけだから、フォークランド諸島はもちろんアルゼンチンのものでしょう!」とばかりに領有と主権を宣言してしまいました。

1-6.イギリスが実効支配してしまう状況に

しかし、悲しいかなアルゼンチンは独立したばかり。まだ中央政府というものがありませんでした。そこで満を持してイギリスは1833年に兵隊を派遣してフォークランド諸島の無血占領に成功。

アルゼンチンの猛抗議もどこ吹く風で、まんまと領有を宣言してしまったのです。

まるでだまし討ちにあったかのようなアルゼンチン側でしたが、当時はイギリスの力が強く、アルゼンチン側も経済的にイギリスに従属していたため「返してくれ!」と強くは言えません。

そうこうしているうちにイギリスはどんどんフォークランド諸島への入植を続け、実効支配を確立したのでした。

1845年、首都がスタンレーに定められ、そうした状態が150年続くことになりました。

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