教養歴史

未完の大器高杉晋作!彼がいなければ明治維新はなかった!

これまでも映画、テレビの中でよく描かれている高杉晋作ですが、実際の彼の生涯を知っている方は多くありません。高杉晋作の生涯は28年と短く、しかも彼が指揮をして勝利したという記録も少なからです。西郷隆盛のように華々しく散った訳でもないためによく知られていないのです。 後年伊藤博文が「彼がいなければ明治維新はなかった」と言わしめたように、未完の大器そのものでした。

良家のお坊ちゃん_高杉晋作

image by PIXTA / 8039834

高杉晋作は、1839年に長州藩士高杉小忠太の長男として生を受けます。父高杉小平忠太は200石取りで長州藩(今の山口県)の側用人になった人物で、晋作は藩士の中でも家柄の良い家に生まれました。しかも、彼以外は妹3人で、跡取り息子として、父からは厳しく大事に育てられます。いわゆる「お坊ちゃん」だったのです。保守的な父親によってことなかれ主義を叩き込まれますが、そのような人生に満足できる晋作ではありませんでした。

でも、萩の名家に生まれただけに、いろいろ失敗しますが、少し謹慎した後には必ず復活ができたようです。

高杉晋作には二面性があった

image by iStockphoto

高杉晋作には、英雄らしく二面性があありました。豪放磊落で烈火の如く行動するお坊ちゃんとは思えない一面と、遊び好きで遊女遊びや都々逸などを三味線で唄うのが得意だった面もあったのです。家には父の決めた武家の娘(雅)と結婚していました。しかし、倒幕に目覚めてからは、それよりも下関の豪商の白石正一郎邸での宴席で出会った「おうの」のところで過ごすことが多かったようで、彼が亡くなったのも彼女の元だったと言われています。

烈火の行動力と風流人

奇兵隊の編成に見られるように、常識に囚われず、状況を変えるのに良いと思えば、迷いなく決断し、烈火の如く行動を起こすのが高杉晋作の真骨頂です。高杉晋作の行動力の凄まじさは仲間内にも有名でした。第二次長州征伐の四境戦争(長州の4か所を守る戦争)における晋作の神出鬼没の動き、列強四カ国との関門戦争における交渉力などにそれが現れています。そのため、多くの若い長州藩士たちから尊敬され、支持を集めて、彼が行動を起こすときには多くの藩士、町民、農民などが付いてきたのです。

一方、平時における高杉晋作は、そのような姿からはかけ離れた風流人であったと言われています。遊女と三味線を手に都々逸を唄うのがこの上なく好きで、戦いの合間にも下関に籠っていました。彼は、風流人として「東行」を名乗っていたのです。それ以外にも、高杉晋作にはたくさんの異名、変名があり、谷潜蔵、谷梅之助、三谷和助などの名も残っています。「谷」性は藩主から賜ったもので、後の明治の代には、伊藤博文、山県有朋、井上薫らが「東行庵」と言うお寺を作り、おうのはそこで生涯晋作のお墓を守っていました。おうのは、明治に入ってから、「谷梅処」と名乗っています。

織田信長に通じる烈火の革新力_大馬鹿か天才か

織田信長は、少年時代に、大うつけと呼ばれて回りから馬鹿扱いを受けていましたが、それは仮の姿で非常に計算高く、周囲の人間を見極めていたと言われます。高杉晋作も、松下村塾に入るまでは、良家のお坊ちゃんとして馬鹿にされていた面がありました。藩校である明倫館に通ったこともありましたが、止めていました。松下村塾に入った当初も、久坂玄瑞などからは馬鹿にされていましたが、師匠の吉田松陰は彼の本質を見抜き、晋作に勉学を勧めます。いつの間にか晋作は玄瑞と共に松下村塾の2大弟子と呼ばれるようになっていくのです。しかし、父親の小忠太はそのような姿を苦々しく思い、松下村塾に通うのをやめさせようとしましたが、晋作は父の願いも虚しく、反幕派の中心人物になっていきます。

松下村塾の2大弟子 高杉晋作と久坂玄瑞

image by iStockphoto

松下村塾に入った頃の高杉晋作は、自分が何者で、何をしたら良いのかわからないままに、噂に高い吉田松陰の元に現れたのです。しかし、松陰は、晋作の持つ周囲に振り回されず、自分の目で確認できたものに対して躊躇なく行動できる資質に気が付き、玄瑞とともに可愛がります。

秀才久坂と天才高杉の違い

image by PIXTA / 15504805

久坂玄瑞は、もともと医者の家に入った養子でしたが、非常に勉強が好きで、秀才と言われ、松下村塾でも最初から抜きん出た存在でした。それに対して当初の晋作は、何を考えているかわからない、勉強もせず、ただいるだけの存在として馬鹿にされていたのです。しかし、高杉晋作には、不思議と人を引き付ける天才とも言える才があり、伊藤俊輔(後の伊藤博文)や井上聞多(後の井上薫)などが子分のように寄り添い、山県狂介(後の山県有朋)らとつるんでいました。それを玄瑞は当初は苦々しく見ていたようです。

次のページを読む
1 2 3
Share: