3-3. 世紀の大同盟実現の立役者となる
それだけではなく、雪斎が能力を発揮したのは、敵対勢力などとの交渉でした。
当時は北条氏や武田氏も全盛期に入っており、常に相手の様子をうかがっていました。そんな中で、雪斎は三者が婚姻関係を結ぶことを提案し、世紀の三国同盟を実現したのです。これは甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)と言われ、当時としては非常にエポックメイキングな偉業でした、
武田の軍師・山本勘助(やまもとかんすけ)や、人質時代を今川家で過ごした徳川家康などは、「あの僧(雪斎)がいなければ、あの家は整わない」と評しました。
これはまさにその通りで、雪斎の死から5年後、桶狭間の戦いで義元が討死を遂げると、今川家は坂を転がり落ちるかのように衰退し、やがて戦国大名としての滅亡を迎えてしまったのです。
政務・軍事両面に力を発揮し、彼ひとりで今川家の全盛期を支えた雪斎。彼こそ最強軍師と呼ぶ意見が多いのも納得です。
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4. 武田信玄のために生き、死んだ異形の軍師・山本勘助
「風林火山」を旗印に、甲斐(かい/山梨県)から戦国時代を席巻した武田信玄には、山本勘助という軍師がいました。最強をうたわれた武田軍団の裏には、勘助の存在があったのです。壮絶な最期に魅力を感じる人も多い、勘助の生涯をご紹介しますね。
4-1. 武田信玄に拾われた異形の軍師
勘助の出自は不明で、駿河(するが/静岡県中央部)の今川氏に仕官の口を求めますが、これといった経歴がない上に容貌が醜く、隻眼で片脚が不自由だということで断られてしまいます。
そんな勘助と面会した武田信玄は、諸国で見聞を広めた彼の知識に感心し、破格の待遇で家臣に迎えたのです。勘助にとっては、この瞬間から、信玄は命を捧げて仕える主君となったのでした。
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4-2. 築城術に通じており、戦でも作戦を的中させ勝利に貢献
勘助は築城術に通じており、城攻めの時にはその知識を生かし、信濃(しなの/長野県)進攻の際には9つも城を落としました。
また、敵の反撃で武田勢が壊滅の危機に瀕した時、勘助は50騎で敵に陽動作戦を仕掛け、味方の反撃を生んで勝利を収めています。これは「破軍建返し(はぐんたてがえし)」という作戦で、勘助の名を一気に高めました。
信玄の信頼を得た勘助は、やがて軍事面だけではなく政治面でも武田の重鎮となっていきました。分国法(ぶんこくほう/戦国時代などに制定された各国の法律)の制定にも関わっています。
4-3. 啄木鳥戦法を上杉謙信に見破られ、壮絶な討死を遂げる
永禄4(1561)年、信玄は終生のライバル・上杉謙信との四度目の川中島の戦いに臨みました。
勘助は、軍を二つに分け、別働隊が上杉軍の籠もる妻女山(さいじょさん)を攻撃し、上杉軍が追われて山を下りてきたところを待ち伏せた本隊が叩くという「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」を提案しました。
勘助は本隊を受け持ち、夜が明けるのを待って作戦開始となりましたが、別働隊が妻女山で見たものは、もぬけの殻となった上杉本陣でした。
そして、勘助ら本隊の目の前には、上杉勢がずらりと陣を布いていたのです。勘助の策は、謙信に見破られていました。
策が破れたことを知った勘助は、死を覚悟して上杉軍に突撃し、最後の奮戦を見せますが、壮絶な討死を遂げました。
最後は敗れ去りましたが、勘助が武田軍団の強さの核にいたことは確かです。彼が現代でも最強の軍師のひとりとして愛される理由は、そこにあるのでしょうね。
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5. 主君への忠義は人一倍!常に上杉景勝を支えた直江兼続
上杉謙信の後継者となった上杉景勝を支え続け、軍師としての評判も名高いのが直江兼続(なおえかねつぐ)です。苦境に追い込まれる主君を補佐し、徳川家康にさえも遠慮するところのなかった彼は、主君を動かす軍師的存在でした。では、彼の功績を見ていきましょう。
5-1. 上杉氏の内政と外交を担った重鎮
直江兼続は、上杉景勝の小姓として仕えるようになり、執政(しっせい/家老職)をつとめ、上杉家を取り仕切る存在として、内政と外交を一手に担うようになりました。
上杉氏の元家臣・新発田重家(しばたしげいえ)の数年に及ぶ反乱に際しては、兼続は土地に目をつけ、湿地帯の越後に流れる信濃川の治水工事を行いました。そして、大雨に勝敗を左右されることなく、この乱を制圧したのです。
内乱が続き疲弊していた越後で、兼続はまず国力の回復に力を注ぎ、新田開発や産業の育成、商業の発展につとめました。このおかげで、現在の新潟県は米どころとなったわけです。
5-2. 家康を怒らせ、政宗を無視した毒舌家だが、主家を第一に思う忠義者だった
秀吉の死後、景勝は徳川家康から危険視されるようになり、会津征伐へとつながりますが、その裏には、兼続の毅然たる態度がありました。城を増築などしていた上杉家が家康から詰問されると、兼続は「直江状」と呼ばれる手紙で回答。理路整然としていながらも皮肉たっぷり、かつ挑発的な内容だったため、家康を怒らせたのだとか。伊達政宗とすれ違っても無視し、咎められると「いつも(戦場で負けて逃げる)後ろ姿しか拝見しておりませんので、気づきませんでした」と答えるほどの毒舌家でもありました。
しかし、関ヶ原の戦いで敗れた西軍に加担していた上杉家は、戦後、会津120万石から米沢30万石に領地を減らされ、一気に台所事情が苦しくなります。兼続は質素な生活を続けて世を去りますが、跡継ぎはおらず、直江氏は断絶となりました。これには、兼続が主家の減封に責任を感じており、自分の高い石高を家の断絶によって返上し、財政負担を軽くしようとしたのだという見方もあります。死してなお、主家のことを第一に考えていたのかもしれません。
6. 伊達政宗を支え続けた軍師・片倉景綱
戦国随一の人気を誇る武将・伊達政宗には、幼少の頃から付き従ってきた側近中の側近・片倉景綱(かたくらかげつな)という右腕がいました。政宗を守り、激励し、力になってきた彼は、武将としても優秀で、その知謀は軍師と同様でした。では、政宗の右腕・片倉景綱についてご紹介します。
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