教養歴史

ガリレオ・ガリレイって何をした人?天文学の父が残した偉大な功績とは

地球は太陽の周りをまわっている……今では当たり前のことですが、こう発言したために教会から異端とみなされ、宗教裁判にまでかけられた人物がいたことをご存知ですか?16世紀~17世紀のイタリアの科学者・ガリレオ・ガリレイです。物理学・天文学の分野において現代科学の礎を築き、多くの功績を遺した「天文学の父」とも称される偉人ですが、具体的にどんな業績を残したのでしょうか。ちょっと難しいけど面白いガリレオ・ガリレイの世界へご案内いたします。

ガリレオ・ガリレイの人物像と功績の数々

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ガリレオが生きた16~17世紀のヨーロッパは大きな変化の時を迎えていました。ルネッサンス、宗教改革、大航海時代の到来など、人々の世界観が大きく変わる時代だったのです。物理・自然科学の世界にも変化の時が訪れていました。

それまでは、古代の哲学者たちが打ち出した定義・ものの見方とカトリック教会の教えがすべての基本でしたが、この時代の科学者たちは自らの手で実験を繰り返し、分析する方法を編み出し、様々な物事を証明しようとし始めたのです。ガリレオもそのうちのひとりでありました。

ガリレオというと「それでも地球は動く」「地動説」「ピサの斜塔の実験」などがたいへん有名ですが、これらについてはガリレオの言動ではないという説もあります。偉大な人物ゆえに逸話が独り歩きしてしまったのでしょうか。そのあたりも含めて、科学の発展に77年の生涯を捧げたガリレオの人物像と功績を見ていきましょう。

ガリレオ・ガリレイとはどんな人物?誕生年や生誕地について

ガリレオ・ガリレイはイタリアのピサ出身の物理学者・天文学者です。

父親は音楽家であり、商売も営んでいたと伝わっています。若いころから数学や物理を深く学び、数学や物理、天文学などを教える講師や大学教授の仕事をしていました。若くして父親を亡くし、家族を養うために働いていた時期もあったようです。経済的な理由から結婚をしなかったと考えられています。

のちにカトリック教会によって裁判にかけられることになりますが、基本的には非常に強い信仰心を持っており、敬虔なカトリック教徒でありました。しかし現代では、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンとともに、科学に革命をもたらした中心人物と言われています。

呼び方については「ガリレオ」が名前で「ガリレイ」が苗字(性)ですが、一般的には名前のほうの「ガリレオ」が使われることが多いです。イタリアでは偉大な人物を名前のほうで呼ぶことがあるそうで、例えばミケランジェロやダンテ、ラファエロなどがそれにあたります。

<ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)>
誕生年: 1564年
没 年: 1642年(77歳)
生誕地: トスカーナ大公国ピサ(現イタリア北部)
出身校: ピサ大学(学位は取らずほぼ退学扱い)
職 業: 数学や物理、天文学などの教師、大学教授
家 族: 父・母・弟4人・妹2人(長男)
主な功績: 望遠鏡を天体観測に導入・天体望遠鏡の改良
      木星の衛星の発見
      金星の満ち欠けに関する変化の発見
      天の川が無数の星の集まりであることを発見
      落下速度に関する実験
      実験や観察、記録、分析、数学を用いた論理追及を貫いたこと(科学革命)

アリストテレスと真っ向勝負!ピサの斜塔での物理実験

ガリレオが生きた時代より2000年以上も昔、古代ギリシアの哲学者・アリストテレスは自然科学・物理学の世界の基礎となる考え方を唱えており、長い間これに異論を唱える人はほとんどいませんでした。その中のひとつ「重い物体は軽い物体より速く落ちる」という考え方に、ガリレオは激しく反論します。ガリレオは「空気などの抵抗がない状態であれば、重さに関係なく物体は同じ速さで落ちる」と主張したのです。

アリストテレスの考え方に、ただ勢いや思い付きで反論したのではありません。膨大な量の記録や文章を書き、綿密な分析と考察のもとに打ち出した論理でした。他の考察についても同様ですが、ガリレオはひとつの結論に至るまでに、たくさんの文章を書き残しています。

しかしアリストテレスの説は長い間支持されてきました。これを覆すのは容易ではありません。ガリレオは自身の説を証明するために、ピサの斜塔の上から大きさの異なる球を落として実験をしたのです。結果、球はどちらも同時に地面に落ち、ガリレオの説は見事証明されました。

というのがピサの斜塔のエピソードですが、これは弟子たちの創作ではないかともいわれています。もちろん、ガリレオの実験であるという見解もあり否定はできません。ガリレオの実験好きは有名ですし、必ず何らかの形で実験をしたはずです。ただ、同時期同年に同じような物理実験を行っていた学者もいましたので、混同して伝わってしまったのでは?との見方も。「ガリレオ=ピサの斜塔」というイメージが強いだけに、もし違うとしたら、ちょっと残念な気もします。

望遠鏡の改良と天体観測への導入~月の表面には何が?

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ガリレオは望遠鏡を天体観測に用いた最初の人物であるといわれています。「望遠鏡を発明した」といわれることがありますがこれは間違いです。望遠鏡自体は、ガリレオより前に既に発明されて世に出ています。

1608年、画期的な望遠鏡がオランダで開発されました。2枚のレンズの組み合わせで、遠くにあるものが近くに見えることがわかったのです。ただ、当初の使用分野は、観劇用であったり、軍事用だったりで、望遠鏡は地上にあるものを見るために使われていました。

これに目を付けたのがガリレオです。1609年、オランダの望遠鏡の20倍もの性能を持つ望遠鏡を自分で作ります。そしてそれを、なんと宇宙へ向けたのです。

望遠鏡を覗きながらガリレオは、月面の凹凸や黒い箇所を発見したといいます。月の表面はつるつるしているわけではなくごつごつしていることを目で見て確認しました。

このような2枚のレンズを使った屈折望遠鏡は、もともとはオランダで発明されたものですが、ガリレオが天体観測に用いたところから「ガリレオ式望遠鏡」と呼ぶことが多いです。そのため、ガリレオが望遠鏡の発明者であると誤解されることが多いのかもしれません。

金星の満ち欠けと木星の衛星と太陽の黒点の発見

月の表面の凸凹を観察し続けたことで、月が丸い天体であることを発見したガリレオは、その後も宇宙に目を向け続けました。翌1610年、木星のまわりをまわる衛星を発見します。この頃は、すべての天体が地球のまわりを回っているというキリスト教の考え方(天道説・地球中心説)がすべてでしたので、ガリレオのこの発見は当時の世界観を根底から覆すものとなりました。

ガリレオはこれら4つの衛星に、イタリアの名門メディチ家にちなんだ名前を付けています。さらに細かい観察の末、木星に近いものから順に番号を振りました。しかしここでガリレオにライバルが現れます。ドイツのシモン・マリウスという天文学者が、ガリレオより先に木星の衛星を発見したと主張したのです。このことで双方に論争が巻き起こりますが、この4つの衛星の発見はガリレオのほうが早かったようで「ガリレオ衛星」と呼ばれるようになりました。ただし現在では、衛星の名前についてはマリウスが付けたイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストという名前が使われています。

さらにガリレオは、金星も観察し続けました。その結果、金星にも月の満ち欠けのような現象が確認でき、大きさも微妙に変化することがわかったのです。これも、金星が地球ではなく太陽のまわりをまわっていることの裏付けとなりました。

自分の理論を立証する確かな証拠を、丁寧な観察と細かな記録によって積み上げていくガリレオ。とうとう太陽の観察にも着手し、明るい表面に黒い点を発見します。これらはすべて、望遠鏡を改良してわずか数年で見つけたものです。

ガリレオは亡くなる数年前、視力を失い失明していますが、これは望遠鏡を見過ぎたせいではないか、と考えられています。それでもガリレオは弟子たちに口頭筆記で記録をとらせ、執筆をつづけたのだそうです。

天動説を否定して教会から目をつけられた?宗教裁判のゆくえ

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天体を望遠鏡で観察することで、数々の大発見をしたガリレオですが、教会の世界観を覆す発言して穏便に済むわけもありません。カトリック教会から目をつけられ、異端として訴えられてしまうのです。ガリレオはローマの異端審問所で審問を受けます。要するにガリレオを裁く裁判が行われたのです。

実は「地球は太陽のまわりをまわっている」と最初に言い出したのはガリレオではありません。ガリレオより前に、ニコラウス・コペルニクスという天文学者が地動説を唱えています。さらに遡ること1800年ほど前の古代ギリシャのアリスタルコスという天文学者も、宇宙の中心は太陽であると発言しており、少数派ではありますが皆無ではなかったのです。

ガリレオは丁寧な実験と観察にもとづき、コペルニクスの地動説を裏付ける証拠を発見していきました。しかし教会はガリレオの言動を良しとせず、多くの人々が注目する中、1回目の裁判が行われます。1616年、ガリレオはローマ教皇庁から「今後、地動説を唱えないように」と注意を受け、これを受け入れたのです。その後しばらくの間、ガリレオは地動説に関する言動を控えたといいます。

ガリレオは1630年、地動説と天動説、そしてそのいずれでもない中立説の3説の対話という形式をとった解説書『天文対話』を執筆。地動説だけを説かず細心の注意を払ったにもかからわず、教会から再び容疑をかけられ、1633年に有罪判決(終身刑)が言い渡されます。のちに減刑されましたがのちに減刑されましたが常に監視がつき、ほぼ軟禁状態で生涯を終えることになるのです。

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