大正日本の歴史

混乱のさなかの大事件「虎の門事件」とは?わかりやすく解説!

今では官庁街やビジネス街が並んでいる東京虎ノ門。しかし、この虎ノ門で日本を大きく揺るがしてしまう大事件が起こってしまうことになるのです。 今回はそんな大正時代の一大事、虎ノ門事件について見ていきたいと思います。

虎ノ門事件の簡単な解説

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虎ノ門事件とは1923年に無政府主義者である難波大助に当時の皇太子が襲撃される事件のことです。このころの日本は関東大震災の混乱に真っただ中であり、この事件の背景には関東大震災後の混乱や政府の労働者弾圧に対する反発があったとされています。この事件を機に第二次山本権兵衛内閣は虎ノ門事件の責任を取り総辞職。犯人である難波大助は逮捕され大逆罪で死刑が執行されました。

どうして虎の門事件は起きたのか?その理由と犯人について

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虎ノ門事件が起こった理由にはこの頃巻き起こっていた無政府主義者に対する弾圧や事件などが頻発していたことにありました。

その原因となったのが1923年に起こった関東大震災だったのです。

関東大震災による大混乱

1923年の9月1日。相模湾付近にてマグニチュード7の地震が発生。たちまち関東地方全域に甚大な被害を与えるいわゆる関東大震災が起こっていました。

特に東京ではお昼時だったこともあり、家屋から発生した火が巻き起こる火災旋風による被害が非常に大きく、この地震により10万9000棟が全壊。約21万2000棟が全焼しています。

関東大震災による死亡あるいは行方不明者は10万5000人、被災者は190万人にも上りました。

特に、発展著しかった東京が主な被災地であったことも災いし、東京の首都機能は麻痺。政府はこの首都機能をなんとか立て直すために東京の都市開発を実行しなければならなくなったのです。

関東大震災によるデマの横行

関東大震災によって首都機能が麻痺したことによって東京の人々は正しい情報があまり得られず、この当時日本に支配されていた朝鮮人が関東大震災後の混乱に乗じて井戸に毒をまくなどの凶悪犯罪や暴動を起こすという噂がまことしやかに流れていくようになります。

さらには政府なんぞもはやいらないと考えていた無政府主義者も次々と弾圧を受けていくようになり、社会主義者であった川合義虎や平沢計七ら10名が亀戸警察署に捕らえられて警察官によって刺殺される亀戸事件や、に無政府主義者であった大杉栄と妻の伊藤野枝らが憲兵隊に拉致され殺害された甘粕事件など無政府主義者や社会主義者に対して激しい弾圧を受けるようになったのです。

もちろん、朝鮮人や社会主義者が暴動を起こしたり、凶悪犯罪を起こしたいすることは単なるデマ。政府は戒厳令を出してこの状況をなんとか抑えようとしましたが、この関東大震災の混乱の最中、大勢の朝鮮人や社会主義者が虐殺されたのです。

戒厳令って何?

戒厳令とは戦時や自然災害や暴動などの緊急事態において混乱状態になったときに軍隊にある程度の権限を与えて行政権・司法権の一部ないし全部を軍部の指揮下に移行する軍事法規のひとつです。

日本では日露戦争後の日比谷焼き打ち事件、関東大震災、2.26事件の3つの事件や混乱の時に発令されたのです。

虎ノ門事件の犯人難波大助について

虎ノ門事件を起こすことになる難波大助は1899年に山口県熊毛郡周防村の名家に生まれました。父の難波作之進は山口県選出の衆議院議員であり、父の影響を受けて難波大助も天皇や皇室に対して敬意を払っている人物だったとされています。

しかし、とある日に田中義一陸軍大臣の整列の時に友人が倒れた際に教師が激怒したことを受けて思想を大きく転換していくようになり、最終的には早稲田大学に入学したもののすぐに中退。

日本社会主義同盟の後援会にも参加するようになり、日雇い労働者となりながら社会主義者と変わっていくようになりました。

さらに関東大震災の混乱の最中に社会主義者が次々と虐殺されていった情報を聞きつけるとついに彼は皇室を打倒するためにテロを起こすことを決意。

この当時病気であった大正天皇に変わって実務をこなしていた摂政宮皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の暗殺を目指していくようになるのでした。

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