室町時代戦国時代日本の歴史

秀吉単独による中国大返し。そのトリックとは一体?

10日足らずで200kmの行軍。例え重い武具や食料、備品は別途輸送したとしても、常識では考えづらいものです。そこで持ち出されるのが本能寺の変。本能寺の変に都市伝説を混ぜることで中国大返しを可能に導く説が多いのです。ここでは本能寺の変を通説通りに捉えた上で秀吉が単独で中国大返しを実現できたかどうかについて考えてみます。

中国大返しについてのおさらい

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中国大返しとは、羽柴秀吉が毛利輝元を攻略する中、秀吉の主君織田信長が本能寺で横死したことを知り、急遽毛利輝元と和睦交渉し、明智光秀を討つために、備中高松から山城山崎までの200キロ以上の距離を東へ大軍を率いて強行移動したことです。秀吉は、毛利家配下の城主清水宗治が籠城する備中高松城の周囲に堤防を築いて水攻めの最中、本能寺の変の知らせを受けました。主君の死を隠しながら毛利輝元と和議、清水宗治の自刃を見届けてから出立しました。

日付は和暦太陰太陽暦の天正10年で、移動した区間は次の通りです。

6月6日 高松城-沼城間=約22km
6月7~8日 沼城-姫路城間=約70km
6月9日 姫路城-明石間=約35km
6月10日 明石-兵庫間=約18km
6月11日 兵庫-尼崎間=約26km
6月12日 尼崎-富田間=約23km
6月13日 富田-山崎間=約6km

以上合計約200kmをわずか8日間で移動したことになります。

中国大返しは、本能寺の変の都市伝説と合わせて語られる

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中国大返しについては秀吉が本能寺の変を知るタイミングの早さや、毛利との和解の早さ、さらには当時の天候が暴風雨と言われた中での長距離行軍を不自然とする意見が多く、信憑性を保つために、本能寺の変自体を都市伝説とすることで、辻褄を合わせようとする傾向が見られます。本能寺の変を予め知っていたために備中高松の出発日を早めることで、もっと日数をかけて移動していた説や、毛利輝元や秀吉も本能寺の変の加担者にして、和睦が1日で終わった謎を説くなどです。

本能寺の変とは切り離して中国大返しを考える

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中国大返しの真実性については、本能寺の変にまつわる都市伝説の力を借りた上で暴かれている説が多く、中国大返し単独での考察には至っていないのが現状です。ここでは本能寺の変自体には都市伝説を当てることなく、織田信長は明智光秀によって討たれ、毛利輝元は本能寺の変については一切知らない中、秀吉が本能寺の変の知らせを受けてから、秀吉単独で中国大返しを成し遂げられるのか、あるいはトリックであったのかどうかについて考えてみます。

200キロもの距離を行軍することはありえない

秀吉の性格から遠距離を行軍することは考えられません。その根拠の一つに、備中高松城を水攻めにした理由も、無益な人的損耗を避けるためとされているからです。そのような秀吉がいくら主君の敵を取るための大義名分があったとはいえ、200キロもの長距離を行軍することで、兵隊の疲弊、毛利からの追撃の危険、秀吉側からは人数すら把握できない明智光秀の軍隊と疲弊した状態にて戦おうとすることからくる兵士の不安感情は無意味以外の何物でもありません。

兵隊側においても疑問が湧いてくるはずです。200キロ先へ行軍することで、報酬をいただけるとはいえ、体力の限界を超えた移動に挑戦するでしょうか。また移動したところでどうやって農作業のために自分の家に帰るのか、また長距離を行軍してまで明智光秀と戦うメリットがどこにあるのでしょうか。今のように日本全体の形がわからず、またキロメートルといった概念もわからない歩兵にとっては、200キロの長距離移動はまさに不安に不安を重ねるようなものではないでしょうか。そのようなことにあえて挑戦する必要が見当たらないはずです。

秀吉は日頃から伝書鳩による最速の情報伝達手段を備えていた

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中国大返しの謎の一つに200キロ先で起きた本能寺の変をどうやって秀吉がいち早く知ったかということです。この場合、予め信長の近くに秀吉の使者を忍び込ませていたと考えられます。もちろん信長の死を伝えるための使者ではなく、信長の中国攻めにおける意向をいち早く秀吉に知らせるための使者といえるでしょう。それがたまたま信長自身の横死になったために、その旨を秀吉に伝達することになったのです。ここで問題になるのはどうやって信長の死を知らせたのでしょうか。

本能寺の変の状況下では使者自身が本能寺の現場を立ち去ることは、ほぼ不可能です。早馬に乗って出かけた場合、その時点で明智軍に捉えられてしまうことは必定でしょう。例え武装していない人間であろうとも本能寺周辺から急いで離れる者については必ず詮議が執り行われるはずです。したがって人間が目立たぬように本能寺から早足で去ることはほぼ不可能とみてよいでしょう。そうなると人間以外の手段での伝達、すなわち伝書鳩が考えられます。秀吉が戦闘の情報を掴むために日頃から街道筋の一定の区間毎に伝書鳩の巣及び及び番人を養成していたとすれば、より伝達は確実になるでしょう。

毛利とは和睦は結ばれておらず戦闘が続いていた

通説では本能寺の変を知るやいなや、毛利と和議を結んだことになっていますが、現実には無理があるはずです。例えば毛利及び秀吉双方の利害関係に絡む共通の敵が新たに現れ、このまま戦い続ければ共倒れになることが明らかにな場合には、和議もありえるでしょう。しかし特に理由なく中国攻めの手を緩めるということは裏があると勘ぐられるはずです。仮に毛利側にとって、秀吉の撤退理由が信長の横死ではなく、秀吉の調略によって毛利を油断させて、信長の援軍が到着するまでの時間稼ぎだったとすれば毛利にとって死活問題となります。したがって恐らく和解することはなかったでしょう。

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