戦国時代とはどのような時代だったのか
1467年、京都で将軍や守護大名の後継者争いを発端とする応仁の乱が起きました。応仁の乱では軽武装の兵士である足軽が活躍し、戦国時代の始まりとなったとされます。やがて、身分が下の者が上の者を凌ぐ下剋上の風潮が世の中を覆い、室町幕府や将軍の威光は地に堕ちました。室町時代の守護大名にかわって、戦国大名が各地の支配を担うようになります。
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戦国時代の定義や期間
1467年の応仁の乱は幕府の権威を著しく傷つけ、各地で実力による支配が行われるきっかけとなりました。「戦国」という語は、中国史の「春秋戦国」からきていますよ。
任期が定められた国司や守護と異なり、戦国大名たちは自分たち個人の領地として各地を支配し、子々孫々まで支配を受け継ぐようになりました。このありさまが、中国の春秋戦後時代と似ていることから名づけられたものです。
戦国時代の開始時期は応仁の乱とするか、1493年の明応の政変(幕府ナンバー2である管領の細川政元が10代将軍足利義稙を排除し、11代将軍足利義澄を擁立した事件)するかで意見が分かれますね。
終了時期は1573年の織田信長による足利義昭追放か、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の完成かで意見が分かれます。どちらの説をとるにせよ、100年近く中央政府の力が弱く戦国大名が各地を支配する戦国時代が続いたことになりますね。
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室町幕府の弱体化と下剋上の風潮
室町幕府は3代将軍足利義満、4代将軍足利義持の時代は強力でした。しかし、6代将軍足利義教が播磨の守護大名赤松満祐に殺害された嘉吉の変以降、弱体化します。さらに応仁の乱や明応の政変などにより幕府の権威は失墜しました。
すると、身分の下の者が上の者を実力で排除して権力を握る風潮が全国各地に広がります。そうした風潮を下剋上の風潮とよびました。
管領や守護大名は将軍をないがしろにし、国元で守護のかわりに領国を預かっていた守護大名が守護を追い出して領地を乗っ取るようになります。
実際、中国地方の一領主に次ぎなかった毛利元就は安芸国守護の武田氏を滅ぼし、現在の山口県を支配していた名門の大内氏を滅ぼすことで中国地方一の戦国大名となりました。もはや、家柄や血筋だけでは領地も財産も維持できない時代となったのです。
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戦国大名の領国支配
各地を実力で支配した戦国大名たちは、自分たちが下剋上を起こされないために、領国統治に力を入れました。戦国大名たちは家臣たちをコントロールするため、分国法とよばれる法律を制定します。
越前朝倉氏の「朝倉孝景条々」、今川氏の「今川仮名目録」、北条氏の「早雲寺廿一箇条」、武田氏の「甲州法度之次第」などが有名ですね。
また、農地を確保し生産力を上げるために新田開発や河川改修なども行います。代表例は武田信玄が甲斐国で行った治水事業。信玄堤を建設し、甲府盆地を豊かな農地に変えようとしました。
戦国時代は戦争が絶えない時代です。そのため、戦国大名は軍団をすぐに編成できるよう、家臣団をまとめました。その仕組みが寄親・寄子制です。有力な家臣たちを寄親とし、国人などの在地領主を寄子として戦いのときに速やかに軍勢を編成できるようにしました。
戦国時代の大まかな流れ
戦国時代の区分は時代のとらえ方によって微妙に違っています。今回は筆者なりの観点から戦国時代を三分。それぞれの区分の特徴を明らかにすることによって、戦国時代の全体像をとらえやすくしようと考えました。北条早雲や斎藤道三が活躍した戦国時代の初期、武田信玄や上杉謙信で有名な戦国大名が割拠した戦国時代の中期、織田信長の上洛で統一へと動き出し、信長の死後、秀吉が受け継いだ戦国時代の後期に分けて考えます。
初期の戦国大名たち
応仁の乱から数十年間は、従来の守護大名が戦国大名にとってかわられつつあった時代です。駿河の今川氏に寄宿していた伊勢宗瑞は、隣国である伊豆の堀越公方家が混乱しているのを見て、伊豆に侵攻。堀越公方家を滅亡させ、伊豆を乗っ取りました。
その後、宗瑞は早雲と名を改め、相模に進出。関東で大きな力を持っていた関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉氏と争いました。
また、現在の岐阜県にあたる美濃国では、一介の家臣(油商人だったとの説もあり)から守護の土岐氏を排除するまでに上り詰めた斎藤道三が登場します。
一方、中央では管領の細川氏の家臣だった三好長慶が細川氏を凌ぐ力をもって近畿地方に君臨しました。まさに、下の者が上の者を凌ぐ下剋上の世の到来ですね。
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