室町時代戦国時代日本の歴史

織田信長の妻を全員紹介!正室、側室、継室の違いや役割は?

「英雄色を好む」ということわざがありますが、戦国の三英傑と呼ばれた織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉、徳川家康には数多くの側室たちがいました。少しでも多く自分の血を引いた子供たちを残すのは乱世の常。ややもすれば政略結婚や子供を産むためだけの存在だと見られがちな当時の女性たちでしたが、彼女たちにもそれぞれの人生がありました。その中で織田信長の妻妾はわかっているだけでも12人おり、今回は正室や側室にスポットを当て、彼女たちの波乱の生涯をご紹介できたらと思います。

1.正室・側室・継室の違いや役割とは?

image by PIXTA / 9253193

信長に限らず、当時の戦国大名たちには数多くの妻妾(さいしょう)たちがいました。たくさん子供を産ませて、家を繁栄させることが第一に考えられていたからです。ちなみに正室・側室・継室という言葉がありますが、それぞれの違いや役割を解説していきましょう。

1-1.正妻または本妻の立場だった【正室】

現在の日本では一夫多妻制が認められていないため、奥さんをたくさん持つことは許されていませんが、当時としては、どれだけ多く妻妾がいたとしても「正室」と呼ばれる正妻はただ一人だけです。

多くの戦国大名たちは、まず伝統や格式・権威を振りかざして周囲を屈服させる必要がありました。それは本人だけでなく正室に関しても同じことですね。

例えば武田信玄の正室は、関東管領家の上杉朝興の娘ですし、今川義元の正室は武田信虎の娘、また朝倉義景の正室は管領細川晴元の娘といったように、自分より格上もしくは同格の家から迎えることがほとんどでした。

自分の家名を上げると同時に、正室との間に子が出来た場合、その子もまた貴種として敬われることになるわけです。

1-2.正妻が離縁したり亡くなった場合に迎える【継室】

当時は「人間五十年」といわれるように、人間の平均寿命が短い時代でした。予防薬やワクチンもない世界ですから、いつ流行り病などで命を失うかわかりません。せっかく正室として女性を迎えても、亡くなったり、離縁することもたびたびだったそうです。

そこで正室がいなくなった場合でも「継室」が認められていました。要は再婚ということですね。あくまで正室を迎えるということですから、お相手もそれなりの家格でなければなりません。しかし政略などによって相手の家格が劣ることもあったそうです。

武田信玄の継室は左大臣三条家の姫ですし、柴田勝家の継室は信長の妹お市の方、さらに徳川家康の継室は秀吉の妹朝日姫でした。継室の場合は、お相手に様々な経歴があるということも注目です。

1-3.公的に認められたお妾さん【側室】

最後に「側室」ですが、若くて美しく、かつ健康であることが望まれました。なぜなら子供を産むことに期待が掛けられていたからです。とはいえ妾といっても強い権力を手にする女性も多く、最もしたたかな存在だったといえるかも知れません。

先ほどの朝倉義景の側室小少将は、越前の政務に介入して国を傾けたとされていますし、豊臣秀吉の側室淀殿も豊臣政権を牛耳りました。また徳川家康の側室茶阿局(ちゃあのつぼね)も家康晩年に隠然たる力を持っていたといわれています。

ただし正室と違って、その出自は家臣の娘であることが圧倒的に多かったようですね。家臣は自分の娘を側室として差し出すことで、家中において一定の権力を握ることも夢ではありませんでした。

ただ大名クラスといっても、黒田官兵衛や高山右近のように側室を一切置かなかった人物もいるのです。きっと正室に一途だったのでしょう。

2.多くの謎に包まれた信長の正室【濃姫】

image by PIXTA / 14882894

映画やドラマなどによく登場する信長の正室【濃姫】ですが、史料を紐解いてみても多くの謎に包まれた女性で、現在もその存在は議論の的になっています。大河ドラマ「麒麟がくる」では川口春奈さんが好演されていますね。戦国の世を信長と共に生きた濃姫の生涯を、学説に基づいてご紹介していきましょう。

2-1.政略のために信長に嫁ぐ濃姫

濃姫は、美濃(現在の岐阜県)の戦国大名斎藤道三の三女として1535年に生まれました。濃姫という呼び名は江戸時代に編纂された歴史書における呼称であるため、正しくはの当時の古文史料である「武功夜話」にある帰蝶(きちょう)または胡蝶という呼び名のほうがあてはまるのかも知れません。

濃姫は幼くして、名目だけの守護土岐頼純に輿入れしたという説もあり、いずれにしても数年後には実家の道三の元に戻っていたと考えられています。

信長の父信秀は、尾張(現在の愛知県西部)で非常に力を持った武将であり、精力的に兵を出しては今川氏や斎藤氏らと戦っていました。しかしどうしても東と西に同時に敵を抱えるのは戦略上よろしくない。そこで西の斎藤氏とは和睦をすることに。その和睦の証として、濃姫の輿入れが決まったのが1548年のことでした。

次のページを読む
1 2 3 4
Share:
明石則実