日本の歴史

蝦夷地から北海道までの歴史をわかりやすく解説〜北の大地に夢を託して〜

今でも観光客が多く訪れている北の大地北海道。この北海道は本州とは全然違う歴史を歩んでおり、北海道独特の文化も成長していきました。 今回はそんな北海道がどのような歴史を歩んでいったのか?北海道が命名される瞬間や、北海道の開拓も踏まえて見ていこうと思います。

日本人が来るまでの北海道の歴史

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日本列島は紀元前2世紀ぐらいに稲作が大陸から伝達してきたという形で縄文時代から弥生時代に移り変わってきましたが、北海道の場合はその気候が寒かったことや、当時の文化の中心地である西日本からかけ離れていることもあり、続縄文文化という縄文時代と同じ狩りなどで生活を行っていました。

そして本州では飛鳥時代や奈良時代と呼ばれる時には北海道は擦文文化といい本州から伝達された須恵器が使われるようになり、土器の表面を木の皮などで擦った擦文文化が成立。

この時代になると狩りだけではなく、むぎやひえなどの穀物を育てるまでとなりました。

一方の北海道北部の沿岸部ではオホーツク文化が隆盛を迎え、アザラシやサケなどを取って生活を行なっていたそうです。

このように北海道ではアイヌ人と呼ばれる以前は縄文時代の頃の日本人と同じような生活を送っていました。

蝦夷地への日本人進出とアイヌ文化

こうして蝦夷地には本州とは別の文化が成立していきましたが、13世紀に入ると日本人が北海道の渡島半島に進出。北海道ではオホーツク文化や続縄文文化を受け継いだアイヌ文化が成立して繁栄をすることになります。

アイヌとはアイヌ語で人間という意味。アイヌ人はコタンという集落で暮らし、サケ漁などの狩猟を主な生業としてさらにあわなどの穀物も若干ながら育てていました。

しかし、アイヌ人には文字が無く蝦夷地がどんな状態だったのかは謎がまだ深い状態でありますが、日本側の資料によると日本人は渡島半島の南側に道南十二館という館を築いてアイヌ人と交易するようになったのです。

しかし、元々ここに住んでいた人からすれば日本人が蝦夷地を侵略していると思うのも仕方ないことであり1456年には日本人がアイヌ人の少年を殺害したことで起こったコシャマインの戦いが勃発。日本人はかなり苦しめられますがこの反乱で武田信広という武将が鎮圧したため日本人の支配地域が拡大されていくことになったのです。

江戸時代の蝦夷地の歴史

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こうしてアイヌ人の反乱を鎮圧して逆に蝦夷地に領土を拡大していった武田信広。彼の子孫たちは蠣崎家、そして松前家と名乗り江戸時代には松前藩を成立させることとなりました。

松前藩の成立

コシャマインの戦いが起こってから約150年。本州では戦国時代を経て江戸時代に突入していきましたが、武田信広の子孫である蠣崎慶広は豊臣秀吉に直接臣従したこともあり蝦夷地の支配権を獲得。さらに関ヶ原の戦いの前には徳川家康に臣従して領土を維持していました。

ちなみに、この時蠣崎家は松前家と名前を変えています。

しかし、蝦夷地には困ったことがありまして実はこの頃の日本の経済の基盤はお米。いわゆる石高制といって取れるお米の量に基づいて土地の支配をするというシステムが確立されていましたが、寒冷な気候に強くする改良をしていないお米は蝦夷地では育てることは不可能であり、松前家の石高制は無高という状態でした。

しかし、徳川家康は松前家の領地を1万石だという形で仮定して松前藩を成立。松前家には年貢による収入の代わりに蝦夷地で独占的に貿易を行う権利を獲得し、家臣に対しても給料はアイヌ人との交易を行うという権利で渡されていました。

アイヌ人による抵抗

こうして松前藩はアイヌ人との交易権を獲得しましたが、これを機に松前藩の商人と武士はアイヌ人に対して交易を強要。松前藩からしたらアイヌ人の交易が唯一の収入源だったため必死になっていましたが、アイヌ人からしたら我慢なりません。アイヌ人はこうした松前藩の横暴に耐えかねて遂に1669年にアイヌ人の首長であったシャクシャインの戦いが勃発。アイヌ人の抵抗は強く松前藩とアイヌ人は和睦しましたが、松前藩はこの時シャクシャインを謀殺してアイヌ人の反抗を鎮圧しました。

しかし、アイヌ人はへこたれません。1789年にはオホーツク海の商取引が横暴すぎるということが原因でクナシリ・メナシの戦いが勃発。しかし、日本人はこの反乱を抑えてこれを機にアイヌ人の組織的な反抗は途絶えることとなりました。

外国人がやってきた!ラクスマン来航とゴローニン事件

松前藩は蝦夷地における支配を確立しましたが、18世紀に入るとヨーロッパからアジアに勢力を伸ばす国が出現するようになります。その国こそがロシア帝国でした。ロシア帝国は一年間交易するための港を欲しかったため、千島列島から蝦夷地へと南下を開始。

1792年には根室にラクスマンが来航。1811年にはゴローニン事件が起こりにわかに蝦夷地を北方警備の拠点にしようとする動きが出始めます。江戸幕府はこの点から伊能忠敬や間宮林蔵などを蝦夷地に派遣。測量を行わせてさらに蝦夷地を松前藩のものから幕府直轄地に変更しました。しかし、ゴローニン事件以降ロシアは長崎に直接通商を求めるようになったため警備を緩めても良くなり最終的には蝦夷地は松前藩に返還。なんだかんだて3万石の大名として明治維新を迎えることになりました。

アイヌの文化を残そう!北海道誕生の物語

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こうして日本人と交流を行うことになったアイヌの人々。しかし、彼らは日本人から蔑まれる存在であり、あまり良い待遇とは言えないような状態での交易をしいられることとなります。さらに、明治時代に入ると元々呼ばれていた蝦夷地という名前は北海道へと改名されることとなり、アイヌ人は日本人へと同化することを余儀なくされることとなったのでした。

しかし、この状況下の中でとある日本人はアイヌの文化を残し、アイヌ人の待遇を改善するために奔走し、最終的には北海道の名前や北海道の都市の名前の由来となる様々な記録を残すことを行なったのです。

次はアイヌ人の文化と北海道の誕生の瞬間について迫っていきましょう。

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