室町時代戦国時代日本の歴史

「足軽」とは?足軽出身の有名人と共に歴史系ライターがわかりやすく解説

大河ドラマや時代劇などで頻繁に出てくる「足軽」という言葉。おそらく一般の兵卒だということは何となくわかることでしょう。しかし具体的な役割やどのような存在だったのか?などについては意外と知られていません。日本の中世から戦国時代にかけて軍事力の中核だった彼ら足軽という存在を、なるべくわかりやすく解説していきたいと思います。また合わせて身分の低い足軽出身でありながら大成した歴史上の人物も何人かご紹介していきますね。

個人戦から集団戦へ。足軽の歴史

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武士身分の最下級の存在ともいえた足軽ですが、歴史が進むにつれて、その役割や存在価値も変遷してきました。足軽の意味は「足が軽く、駆け回る者」のことを指します。まずは足軽の歴史について史料を交えて解説していきますね。

後方支援要員だった足軽たち【平安~鎌倉時代】

平安時代中期以降に全国各地で武士団が出現した頃、直接戦闘に参加するのは武士だけでなく【家の子・郎党】といった家臣たちでした。しかし戦いをするにも食料の運搬や雑用、牛馬の飼育、土木工事などは武士身分の者が行うものではありません。

そういった雑用をこなし、戦いに参加せずに後方支援のみに特化した人々がいました。そういった人たちが足軽の原型だとされています。

当時の戦いは一騎打ちといった個人戦が主流だったため、足軽が活躍するような集団戦になるのはもっと後世のことだという説もありますが、実際には鎌倉時代の初め頃には既に戦力として活躍していた節があるのです。

 

「郎党足軽共四五十人馬の口前後左右に附て真先に先づ罷り向ひ候て」

引用元 「保元物語」より

 

保元物語は鎌倉時代前期の作ですが、「足軽」という語句が初めて登場した書物だとされています。武士の主従関係を表した【御恩と奉公】と同じように、主人と足軽の関係もまた「足軽の生活が保証される代わりに、主人に奉公する」という図式が出来上がっていたものと考えられますね。

ゲリラ戦や集団戦法を駆使した足軽たち【南北朝~室町時代】

鎌倉時代末期、鎌倉幕府の屋台骨が揺らぐようになってくると、【御恩と奉公】には関与せず幕府にも属さない新たな勢力が台頭してきました。それが楠木正成をはじめとする悪党たちでした。

倒幕の機運の中で、彼らは討伐にやってきた数万もの軍勢を相手にわずかな手勢で戦いを挑みます。それまでの戦闘は個人を主体にした弓矢による戦いが主流でしたが、彼らは違いました。幕府方が思いもつかないようなゲリラ戦や白兵戦を挑み、大いに幕府の大軍を悩ませたのです。

そして急速に戦乱が増加していったこの時代以降、足軽の存在はなくてはならないものになりました。その最たるものが応仁の乱。各地の守護大名たちが京都を舞台に戦い続けましたが、東軍西軍合わせて30万近い軍勢が参加したとされています。

しかし乱に参戦した大名や武将たちの顔ぶれを見ても、とてもそれだけの動員力はありません。ではどこからそんな兵力が出現したのでしょう?

それは戦力の多くが雇い入れの足軽だったからです。数の論理でいえば、より多くの戦力を確保した方が有利になりますし、国元から援軍を催促しようにも今度は国元の治安が不安定になります。

そこで考えられたのが現地(京都)で戦力を確保することでした。農民や流民だけでなく、盗賊や無頼の徒なども積極的に雇い入れて頭数を揃えようとしたのですね。

しかし頭数は揃うものの、ろくに訓練すら受けていない足軽たち、その質たるや低いものだったことでしょう。戦いとは関係なく乱暴狼藉はするわ、盗みはするわで大変評判は悪かったようです。

京都市左京区にある真正極楽寺(真如堂)には、「真如堂縁起」という絵巻物があり、応仁の乱の生々しい戦いの様子と、足軽たちが戸板や資材を強奪する姿が描かれていますね。

足軽たちの頭目となった男【骨皮道賢(ほねかわどうけん)】

元々は足利幕府侍所(さむらいどころ)の役人でしたが、応仁の乱の時に東軍に味方し、雇い入れられた足軽たちの頭目となってゲリラ戦や後方攪乱戦術を駆使して活躍しました。

京都の稲荷山を拠点として、西軍へ運び込まれる武器や食料を強奪するばかりでなく、周辺の民家を放火、略奪するなど暴れまわったそうですね。

しかし結局は西軍の大軍に攻め込まれ、烏合の衆だった足軽部隊は壊滅。道賢も女装して脱出しようとしたところを討たれてしまいました。

合戦の主力となった足軽たち【戦国時代】

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By 不明 – A woodblock print from an unknown Japanese book., パブリック・ドメイン, Link

戦国時代になって戦いが常態化すると、足軽の存在なくして武家の存在意義は語れなくなりました。領地を維持するためには相応の戦力が必要になりますし、足軽たちにとっても合戦は絶好の稼ぎの場となったのです。

合戦に勝てば、敵方の村や集落を略奪できますし、敵の城を攻める際にも収穫間近の作物を刈り取って自分たちの食糧とする刈田狼藉(かりたろうぜき)などが頻繁に行われました。

徳川家康の家臣、松平家忠が記した日記にも刈田狼藉の様子が描かれていますね。

 

「同廿二日辛丑西駿河、田中へ苅田のため働かれ候。我々馬乗衆、大谷へ物見に出し候。平岩七之助同心、手負いして越され候。」

引用元 「家忠日記」より

現代訳

天正六年寅八月二十二日、西駿河の田中城のあたりへ人足を出して田んぼの刈り取りを行おうとした。それに気づいた敵方が反撃に出てきたため、大谷へ物見(偵察)に出かけていた平岩七之助(平岩親吉)が傷を負ったそうだ。

 

織田信長豊臣秀吉によって武士だけで構成された常備軍が登場するまでは、どの戦国大名の軍勢も「足軽=農兵」という位置づけでした。普段は農業に従事し、いざ合戦になると武器を持って戦うという図式ですね。土佐の長宗我部氏が敷いた【一領具足】という軍制が特に有名です。一領具足の兵たちは農作業のかたわら、常に鎧兜を側に置いていたそう。

また鉄砲という新しい武器の登場や、戦術の進化に伴って足軽の役割じたいも細分化されていきました。鉄砲足軽槍足軽弓足軽という専門的な部隊が登場したのも戦国時代だったのです。

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明石則実