金次郎が生きた江戸時代後期の農村
二宮金次郎は1787年に現在の神奈川県小田原市周辺を治めていた小田原藩の農民の子として生を受けました。江戸後期は財政難に陥った幕府や諸藩による年貢増税や度重なる天災などにより農民の生活は困窮します。行き詰まった農民たちは全国各地で一揆を展開。騒然とした時代でした。金次郎が生きた江戸時代後半の農村についてまとめます。
改革による年貢増徴
18世紀前半に将軍となった8代将軍徳川吉宗は農業改革を中心とする幕政改革を実施し、幕府の財政を立て直そうとしました。いわゆる享保の改革です。
享保の改革では新田開発で農業生産力を増やす一方、年貢を取り立てるときの税の基準を検見法から定免法に改めました。
検見法では、各年の収穫量に応じて税率を定めていましたが、定免法では豊凶に関わりなく一定の年貢を徴収すると定めます。幕府の税収は安定しましたが、凶作でも一定の年貢を必ず納めなければならなくなった農民たちにとっては事実上の増税となりました。
吉宗によって定められた年貢増徴路線は18世紀末の寛政の改革にも引き継がれます。寛政の改革では農村から江戸に出稼ぎ出ることを禁じ、農民を農村に縛り付けようとする政策が出されました。
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度重なる天災
江戸時代は天候不順や天災などが原因でしばしば飢饉に見舞われました。1732年、長雨の影響により西日本を中心とした享保の飢饉が発生します。西日本ではイナゴやウンカが大量発生する蝗害も発生。米価が急騰した江戸では最初の打ちこわしが起きます。
1782年、田沼意次が老中だったときに浅間山が大噴火。冷害や洪水などが追い打ちをかけ、東日本を中心に壊滅的な被害が出ました。これが、天明の大飢饉です。金次郎が生まれたのは天明の大飢饉の終わりごろでした。
天明の大飢饉での死者は90万人以上に達します。凶作による米価高騰で、都市では打ちこわしが、農村では年貢減免を訴える百姓一揆がおきました。
1833年、12代将軍徳川家慶の時代には天保の大飢饉が起きます。天候不順や暴風雨、冷害などにより全国的に飢饉が発生。20万人以上が餓死しました。
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多発する百姓一揆
年貢の増徴や度重なる天災は農民たちを苦しめました。農民たちが幕府や藩に対し実力で年貢の減免などを訴えることを一揆といいます。江戸時代に一揆は記録されているだけで3200件発生しました。
一揆の件数が増加するのは享保の改革以後です。かつては、村の代表が「恐れながら」といって年貢減免を直訴していた一揆が、村をあげて「年貢を下げろ!」と要求する惣百姓一揆へと変化しました。
天保の大飢饉のころには、物価の引き下げや専売制度の廃止、土地の再配分や借金の方にとられた質地の返還など年貢減免以外の要求を掲げる世直し一揆も急増します。見方を変えれば、農民たちが大規模一揆をおこさざるを得ないほど追い詰められていたとも言えますね。
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どん底転落から始まった人生
二宮金次郎は江戸時代後期の天明7(1787)年に小田原近郊の村で誕生しました。金次郎の家が川の洪水で没落したのち、金次郎は祖父や親族の家を転々とする苦しい幼少時代を過ごします。その中でも金次郎は生家の再興をあきらめず、元手を貯蓄。そして、20歳の時に生家の再興に成功しました。
生家の没落により貧困にあえいだ幼少期
二宮家は小田原藩領の栢山村にありました。父の利右衛門は養父から13石の田畑と屋敷を相続します。しかし、利右衛門は散財を重ねて家のたくわえは減っていきました。
1791年、南関東を襲った台風により酒匂川が氾濫。二宮家があった東栢山一帯が水浸しになり、二宮家の田畑も屋敷も流失してしまいました。利右衛門はかろうじて田畑を復興しますが、借金を抱えてしまいます。
1797年、父が眼病を患ったため、幼い金次郎が父のかわりに労役を果たしました。1800年、父が病によってこの世を去ります。その2年後、母も貧困の中で死去しました。金次郎は二人の弟を母の実家に預け、自らは親族の萬兵衛の家に身を寄せます。
金次郎は親族の家で懸命に働きましたが、萬兵衛は金次郎が夜に読書をすることを燈油の無駄遣いとして嫌いました。そこで、金次郎は堤防に菜種油の原料となるアブラナを植え、そこから油をとって自分の読書用の油とします。