ペリー来航前
ペリー来航前の19世紀後半、欧米諸国の船が日本近海に来航するようになっていました。日本人漂流民を送り届けようとしたアメリカ船モリソン号を砲撃して追い払ったことを批判した人々は幕政批判を行ったとして蛮社の獄で処罰されます。しかし、アヘン戦争で清国が敗北すると危機感を持った幕閣は異国船打払令を改め、薪水給与令を発布しました。1840年代に入ると、諸外国は本格的に日本に開国を求めるようになります。
モリソン号事件と蛮社の獄
1825年、江戸幕府は接近する外国船を理由の如何を問わず撃退するとした異国船打払令を出しました。これにより、接近する外国船は砲撃の対象となります。
1837年、アメリカの商船モリソン号はマカオで保護されていた日本人漂流民を載せ、日本近海に現れました。幕府は浦賀沖に現れたモリソン号を砲撃し、打ち払います。
高野長英は『戊戌夢物語』を著して婉曲にではありますが、幕府の対応を批判しました。また、三河田原藩の家老である渡辺崋山は『慎機論』を著し、幕府の対応に批判的な意見を書きます。『戊戌夢物語』は写本で世間に流布し大反響を呼びました。
1839年、高野長英や渡辺崋山ら蘭学者のグループ(蛮社)のメンバーが逮捕されます。小笠原諸島に渡航する計画が逮捕理由でしたが、幕政批判も問題とされ、高野長英は永牢、渡辺崋山は国元で蟄居を命じられました(蛮社の獄)。
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アヘン戦争と薪水給与令
1840年、アヘン貿易をめぐって対立が深まっていたイギリスと清国は戦闘状態に突入。アヘン戦争が始まります。清国は東アジアで最も強大な国とみられていました。しかし、イギリスの進んだ武器や圧倒的海軍力の前に清国軍はなすすべもなく敗退を繰り返します。
1842年、イギリスと清国は南京条約を締結しました。南京条約で清国はイギリスに香港島を割譲。多額の賠償金を支払ったうえ、上海など5つの港を開港すると約束します。東アジアの盟主ともいえる清国の敗報は日本にももたらされ、幕府に情勢認識の変更を迫りました。
1842年、老中水野忠邦は天保の薪水給与令を発布。遭難した船に限り、水や食糧を供給することを認めました。異国船打払令を撤回し、強硬策を改めることで諸外国との摩擦を避けようとしたのでしょう。
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強まる欧米諸国からの開国要求
アヘン戦争以後、欧米諸国の船は今まで以上に頻繁に東アジアに出没するようになりました。1844年、日本と国交を持っていたオランダは国王ウィレム2世の親書という形で日本に開国を勧告します。
オランダの親書は幕府に対し、アヘン戦争の二の舞にならぬよう、あらかじめ開国しておいた方がよいという内容でした。幕府は、オランダの勧告を拒否し鎖国を継続します。
1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官のビッドルが日本の浦賀に来航し、開国を要求しました。幕府は交渉を長崎で行うと回答しました。ビッドルは本国から辛抱強く交渉するよう訓令されていたこともあり、幕府との交渉をいったん打ち切り帰国します。
幕府は弘化年間の開国要求に対してはのらりくらりかわすことに成功しました。しかし、この状態が続き鎖国を継続できたのはペリー来航の前までのことです。
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ペリー来航と開国
ビッドルが引き上げてから7年後、再びアメリカ艦隊が日本に迫りました。このとき、アメリカ艦隊を率いていたのがペリーです。ペリーは浦賀沖に居座り、幕府に開国を迫りました。幕府は翌年の回答を約束します。老中首座として政権のトップにいた阿部正弘は、諸大名や朝廷と連携しつつ、安政の改革を実行しました。1854年1月、ペリーは再び浦賀沖に来航。前回に倍する艦隊で開国を迫ります。幕府はこれ以上鎖国を継続できないと考え、日米和親条約に調印。ついに、日本は開国します。
ペリー来航
1852年、オランダはアメリカが今までと異なり砲艦外交で日本に開国をもたらす可能性を幕府に伝えました。砲艦外交とは、武力を背景として行う外交交渉のこと。ペリーは最新鋭戦艦である蒸気戦艦を用意し、日本に圧力をかけようとします。
1853年7月、蒸気戦艦を含む4隻のアメリカ艦隊が浦賀沖に姿を現しました。ペリーが率いた艦隊は黒で塗装されていたため、黒船と呼ばれます。黒船は日本の船と比較にならない巨大さで、しかも、当時最新鋭の蒸気戦艦にいたっては、多くの日本人が見たことがないものでした。
ペリーはアメリカ大統領フィルモアの開国を求める書簡を将軍に手渡すといって退去しようとしません。老中阿部正弘は、ペリーに翌年の回答を約束。ようやくペリーは引き上げました。
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