室町時代日本の歴史

くじ引きで決まった「足利義教」とは?やりたい放題の万人恐怖将軍を解説

後継者指名と内紛はセットのようなものではありますが、室町時代、将軍をくじ引きで決めた事実があったことをご存知でしょうか。そして引き当てられたのが、室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)です。実は僧籍にあった彼は、還俗して将軍となりました。しかし、その後の彼の行動は、かつて僧だったとは思えないほど無軌道で残虐なものだったのです。「万人恐怖」と人々を震え上がらせた彼の生涯をご紹介したいと思います。

前代未聞のくじ引きで誕生した将軍

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金閣寺を建てた第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の五男として生まれた義教は、幼くして出家し、僧としての人生を歩むはずでした。しかし、将軍の相次ぐ死により、彼に将軍の座が回ってくることになったのです。ただ、彼が選ばれた方法は、くじ引きという驚きの手段でした。彼が将軍となるまでの経緯を見ていきましょう。

幼くして出家し、将来は僧になるはずだった

応永元(1394)年、足利義満の五男として誕生した義教は、10歳の時に青蓮院(しょうれんいん)という寺院に入り、5年後に出家し「義円(ぎえん)」という法号を名乗るようになりました。義教が入った青蓮院は、皇室や摂関家の子弟など身分のきわめて高い人々が僧籍となる際に入る「門跡(もんぜき)寺院」でした。

他の兄弟も軒並み出家して僧となる道を歩んでいるのですが、これは、父・義満が後継者となる長男・義持(よしもち)に何かあった時の場合のいわゆる「保険」として、弟たちを安全な寺院に入らせていたためと考えられます。

「逸材」と期待された青少年時代

応永26(1419)年、26歳になった義教は、第153代天台座主(てんだいざす)という位の高い地位に付きます。これは、比叡山延暦寺のトップであり、天台宗という宗派の頂点に立つことを指しました。一説には、「天台開闢(かいびゃく)以来の逸材」とその才能を称賛されていたとも言われており、義教は非凡な人物だったようですよ。

高貴かつ才気あふれる若き青年僧だったと考えられる義教でしたが、この後、彼の運命は大きく動き始めることとなるのです。

兄と甥の死から…くじ引きで転がり込んだ将軍の座

義満の長男で義教の兄である足利義持は4代将軍となり、隠居後はその息子・義量(よしかず)が5代将軍となりました。義持はずっと実権を握り続けていましたが、応永32(1425)年、義量が急死してしまいます。しばらくは義持が政治を行っていましたが、この義持もまた応永35(1428)年に病に倒れ、亡くなってしまいました。

しかしここで困ったことが起きました。義持が、6代将軍に誰がなるのかを決めていなかったのです。危篤状態に陥ってさえも、義持は指名を拒んだのでした。

このため、困り果てた家臣たちは石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう/京都府八幡市)でくじ引きを行い、義持の死の直後にそれを開封し、後継者を決定したのです。

そして、そこにあった名前が、「義円」すなわち義教だったのでした。

こうして、義教は前代未聞の「くじ引き将軍」として還俗(げんぞく/僧から俗人に戻ること)することとなり、くじ引きから約2ヶ月後の正長2(1429)年3月に正式に「足利義教」となり将軍の座についたのです。

意気盛んな将軍から「万人恐怖」の暴君へ

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By 不詳 / Unknown – ja:『京都五山 禅の文化』展図録、東京国立博物館九州国立博物館日本経済新聞社 en: Kyōyo Gozan — Zen no Bunka (“The Kyoto Gozan Temples And Zen Art”), exhibition catalogue by Tokyo National Museum, Kyushu National Museum and Nihon Keizai Shinbun, パブリック・ドメイン, Link

くじ引きとはいえ、将軍という最高権力者の地位についた義教。父・義満のような絶対的な権力を有する、強い将軍となることを志し、積極的に改革に乗り出します。しかし、やがてそれはエスカレートし、道を違え、やがて彼は人々から「万人恐怖」「悪御所(あくごしょ)」と呼ばれるようになっていきました。彼はいったいどうしてしまったのでしょうか?

将軍の権威復活に動く

義満以降、徐々に力の落ちてきた室町幕府の権威を復活させたいと、義教は考えていたようです。そのため、朝廷にも強い態度で臨みました。また、将軍を補佐するNo.2的な立場である管領(かんれい)の力を制限するため、各大名とのやり取りを、管領を通さずに行うようにするなど、専制色を強めました。

一方で、関東では将軍になれなかったことを不満に思った鎌倉公方(かまくらくぼう/関東支配のために置かれた幕府の出先機関「鎌倉府」のトップ)・足利持氏(あしかがもちうじ)が反乱を起こしていましたが、義教は関東の武士団の一部を将軍直轄とし、この反乱を鎮圧して幕府の力を示したのでした。

持氏には「還俗将軍め!」と罵られ、いたくプライドを傷つけられたこともありました。くじ引きは神託であり、当時としては何ら後ろめたいような手段ではなかったのですが、指名されずにくじ引きで将軍の座についたことは、どこか義教の心に暗い影を落としていたのかもしれません。それが彼のタガを外すことになったのかどうかはわかりませんが、彼はやがて常軌を逸した行動を多く取り始めるようになるのです。

苛烈なやり方に、僧が抗議の焼身自殺!

義教が「義円」と号していたころ、比叡山延暦寺のトップに君臨していたことはすでに述べました。この延暦寺で内紛が起きたため、義教は当然介入したのですが、どうにも収まらなかったのです。このため、義教は延暦寺を包囲するなど強硬策に出ました。

この時は管領の仲介で和睦を結ぶことになったのですが、かつて自分が統治した延暦寺の面々が自分に従わないことが、義教には面白くありません。そこで彼は、延暦寺の代表が和睦の場にやって来たところを、処刑してしまったのです。将軍にあるまじき行為ですよね。しかも、それに抗議した延暦寺の僧2人が、焼身自殺を遂げてしまったのです。

これに関して、義教は厳しい態度を崩しませんでした。彼は、「以後、比叡山の噂をしたら処刑する」とお触れを出したのですが、実際その話に触れた商人が処刑されてしまったのです。

これには世間の人々も震え上がり、義教は「万人恐怖」の将軍として恐れられるようになっていきました。

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