意外と知られていない歴史書の中の卑弥呼
卑弥呼(ひみこ)は「魏志倭人伝」に登場する人物です。意外と知られていないのですが、この「魏志倭人伝」は有名な中国の歴史書『三国志』の中の文章なんですね。つまり『三国志』の3つの国「魏・呉・蜀」の魏の歴史について書かれた本の中に、ちょろっと日本のことが書かれているというわけです。それでは「魏志倭人伝」の中で卑弥呼がどのように描かれているのか見ていきましょう。
歴史書に描かれた卑弥呼1・卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった?
最初に「卑弥呼は邪馬台国(やまたいこく)の女王」と言いましたが、実は「魏志倭人伝」にはどこにもそんなことは書かれていなかったりします。これは盲点なんですが、卑弥呼は「倭国(わこく)の女王」としか書かれてないんです。倭国というのは当時の日本の国名ですね。2世紀後半ごろの倭(日本)はたくさんの小さい国に分かれていて、戦争が絶えませんでした。男性の王が70~80年も続いていたのですが、女性である卑弥呼を王にしたところ平和になったと書かれています。
では、なぜ「卑弥呼=邪馬台国」というイメージが一般的なのかというと、卑弥呼の居住地が邪馬台国だったんですね。おそらく邪馬台国は当時の倭の中でも一番大きな国で、女王となった卑弥呼はそこを首都として諸国を統治したということなんです。
歴史書に描かれた卑弥呼2・卑弥呼は巫女さんだった?
卑弥呼は妖術のようなものを使って人々を惑わしたと書かれています。つまり卑弥呼は政治家ではなく、まじないを使って人々にお告げを出した巫女さんのような存在だったということです。高齢で、夫はいなくて生涯独身。弟が政治を補佐したそうです。王になってからは彼女の姿を見た者は少なく、厳重に警備された部屋には1人の男性が食事を運ぶために出入りしていただけだったと伝えられています。
西暦238年、難升米(なしめ)という人物を当時の中国で強い勢力を持っていた魏の国に派遣したところ、皇帝は歓迎して卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を与えました。こうして卑弥呼は外交によって倭の王としての地位を確立したのです。
歴史書に描かれた卑弥呼3・卑弥呼の死とその後
卑弥呼が死ぬと、大きな塚(古墳)が作られ100名もの奴隷が共に埋葬されました。その後、男性の王が立てられたのですが、倭国は再び混乱して多くの人々が殺し合ってしまいます。そこで卑弥呼の縁者である壱与(いよ)という13歳の少女を王にしたところ、また国内は平和になったのでした。
「魏志倭人伝」の記述はここで終わっています。壱与(台与/とよという説も)がどんな人生を送ったのかはわからず、次に中国の歴史書に倭国の記述があるのは約150年後の「倭の五王」の時代です。卑弥呼や壱与がのちの大和政権とどのような関係にあったのかも不明で、古来より論争になっています。
卑弥呼をめぐる謎は解明されたのか?
さまざまな謎を残した卑弥呼ですが、近年の研究で謎の解明が進められています。卑弥呼のお墓はどこにあるのか、卑弥呼の正体はだれなのかなど、今ではどのような説が有力になっているのかを探っていきましょう。
卑弥呼の謎1・箸墓古墳は卑弥呼のお墓だった?
卑弥呼の墓として有力な候補とされているのが、奈良県にある箸墓古墳(はしはかこふん)です。宮内庁はこの古墳を「孝明天皇」の皇女「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこ)」の墓としていますが、卑弥呼が亡くなった3世紀後半の墓であることや、古墳時代初期の最も大きな古墳であるということから卑弥呼の墓ではないかという説が有力になりました。ただ、「魏志倭人伝」の記述では卑弥呼の墓は円形なのに箸墓古墳は前方後円墳であることなど、卑弥呼の墓とするには矛盾点が多く、違うのではないかという意見が多くなっています。宮内庁は古墳の発掘に消極的で、真相の解明は難しそうです。
そもそも邪馬台国はどこにあったのかという論争もまだ決着はついていません。近畿説と九州説がありますが、出土される銅鏡の数などから当時は近畿地方に大きな勢力があったことは間違いないようです。卑弥呼は魏の皇帝から銅鏡を100枚送られているので、この銅鏡が見つかれば決定打になるでしょう。ただ、三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)という銅鏡はすでに400枚以上も見つかっていて、どう考えても国内で作られたとしか考えられず、新たな発見を待つしかない状態です。
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卑弥呼の謎2・卑弥呼は「ひみこ」じゃなかった?
卑弥呼は「ひみこ」と読むのが常識ですが、実際に当時の日本でなんと発音されていたのかは実はわかっていません。「ひめこ」と発音して、太陽に仕える巫女という意味の「日巫女」だったのではないかとか、「姫子」だったのではないかという解釈がされています。また、邪馬台国九州説に立つ学者による「ひむか」と読むという説もあって、九州の地名である「日向」を指したのではないかというわけです。面白いことに「ぴやこ」という説もあります。中国から来た使者が宮殿を指す「みやこ」という言葉を女王の名前と聞き間違ったのではないかということなんですね。
さらに謎なのは、邪馬台国と対立していた狗奴国(くぬこく)の男王が「卑弥弓呼(ひみここ)」という名前だということ。なぜライバルが卑弥呼とそっくりな名前だったのか疑問ですが、卑弥呼以上に証拠が乏しいため解明されていません。