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戦国時代のきっかけに!対立構造が複雑な【応仁の乱】をわかりやすく解説

戦国時代の先駆けとも言われている応仁の乱。学校で習ったかと思いますが、この乱の関係図が非常にややこしいため挫折する人も多いそうです。 今回はそんな応仁の乱について原因を中心に解説していきたいと思います。

応仁の乱の簡単な概要

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応仁の乱とは1467年から11年続いた将軍の跡目争いや守護大名の対立などによって引き起こされた乱です。ひとよむなしい(1467)応仁の乱とも覚えた人もいるのではないのでしょうか?

この乱はややこしいと言われるほど対立構造が複雑で、さらには最初の頃は将軍の跡目争いという大義名分があったのですが、途中から守護大名ですらなんのために戦っているのかわからなくなっていました。

力を増していく守護大名

足利義政が将軍に就いた時、幕府内では守護大名による権力争いが起きていました。実は彼が将軍に就くことになるちょっと前に将軍が守護大名に殺されてしまうという嘉吉の乱という一大事件が起きていたのです。その時の将軍であった足利義教は守護大名が力持たないように徹底的に弾圧をしてなんとか将軍の権威を増やそうとしていましたが、暗殺されてしまったことを受け幕府内では三管領と呼ばれていた斯波・畠山・細川と四職と呼ばれていた山名・一色・京極などが力を増していました。(四職には赤松もいますけどこの時赤松家は滅んでいる判定を受けているので除外しています)

その中でも特に嘉吉の乱の直後赤松家を滅ぼして力を増していた守護大名であった山名家と細川家は将軍に匹敵するぐらいの権力を持っていました。そしてこの2家が応仁の乱の総大将となっていくのです。ちなみにこの時の山名家の当主は山名宗全、細川家の当主は細川勝元といいます。

守護大名の家督争い

応仁の乱が起こった原因の一つにこの時いろんなところで守護大名の家督争いが起きていました。

例えば畠山義就と義長の間での争いや斯波義廉と斯波義敏などが当時争っていました。特に畠山家の争いは細川家まで飛び火してこれが原因で畠山家と斯波家は応仁の乱の時家を真っ二つにした争いが起きることになってしまうのです。

将軍の跡目争い

どんどんきな臭くなってきた中ついに応仁の乱の最大のきっかけとなるとある重大な問題が起きてしまいます。この頃8代将軍であった足利義政は将軍をもうそろそろ引退して悠々自適に生活を送りたいと考えていました。(この人は政治能力はポンコツでしたけど、文化面でいったら慈照寺を建てて東山文化を確立した人ですのでそっちの方がよかったのかもしれませんね。)そこで義政はこの時出家していた弟である義視を還俗(僧をやめさせること)をして将軍に就かせようとしていました。

この時は奥さんの日野富子もこの案に賛成でしたが、諦めた時に限って子供って生まれてしまうんですね。義視に将軍職を譲ろうとした時になんと男の子が生まれてしまったのです。

さあ大変だ。もうとっくに将軍職を譲ろうとしていた矢先に子供が生まれてしまったことによってせっかく還俗したのだから将軍になりたい義視と息子を将軍にしたい日野富子の間で対立が起きてしまいます。

そして、日野富子は山名宗全へ、義視は細川勝元の後ろ盾を得て室町幕府内では戦争が起こる一歩手前までに陥ってしまったのです。

ちなみにこの時細川勝元の方についた守護大名や武将を東軍。山名宗全についた守護大名や武将のことを西軍と呼びます。余談ですが、西軍が本拠地としたところ(西陣)近くで作られた織物が今の西陣織の由来となっているんだとか。

応仁の乱の勃発

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1467年赤松家の生き残りである赤松政則という人が山名家の所領となっていた播磨を攻撃。さらに京都の上御霊神社を畠山義就が攻撃したことによって応仁の乱がついに勃発しました。

最初の方はやばいと思った義政が停戦命令を出していましたが、総大将の山名宗全と細川勝元はもう将軍の命令なんて知らんぷり。畠山義就は京都を占領する一方で播磨は赤松政則によって奪われることになります。こうして応仁の乱は始まってしまいました。

初期の東軍優勢

しかし、西軍もやられたままで黙ってはいません。山名宗全は山名家の領地から3万の兵を集め、さらに当時日明貿易で細川家と対立していた大内家が西軍についたことによって一気に形勢が逆転。初期の東軍優勢は何処へやら一気に東軍と西軍は膠着状態に入ってしまいました。

グダグタになっていく応仁の乱

大内家が西軍についた頃には東軍16万、西軍11万計27万が京都に集結しているという事態に発展しています。あの天下分け目の関ヶ原の戦いでも両軍合わせて15万ですから恐ろしいものです。さらにここから9年争いますからね。

さらにこの頃になると兵の統率が効かなくなり各地で暴動や強盗が横行。さらに京都は戦によって焼け野原になってしまい、鹿苑寺を始め京都の名だたる神社仏間は焼け落ち、さらにあの祇園祭も20年開催見送りを決めるというカオスな状況となってしまいました。

この頃に入ると細川勝元はある戦略を打ち立てます。それは西軍の本拠地を攻めて西軍の大名を京都から帰らせようというものでした。こうすることによって一気に東軍優勢に持ち込める!そう思ったのですが、これが原因で応仁の乱のグダグダが京都だけではなく、地方にも広がることになるのです。

さらにこの頃になってくると元々義視が東軍についていたのが西軍に、日野富子が西軍についていたのが東軍につくというあべこべ現象が起きてしまいます。もう何が何だかわかりません。

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