室町時代戦国時代日本の歴史

一代で中国地方八カ国の太守にまで上りつめた「毛利元就」をわかりやすく解説

戦国時代の前期、現在の広島県にあたる安芸国の一国人領主に過ぎなかった毛利元就は、大内氏と尼子氏の二大勢力に挟まれた状況で、智謀の限りを尽くして勢力を拡大。両勢力を滅ぼして中国地方の覇者にのし上がりました。元就の人生は順風満帆どころか波乱に満ちたものとなります。今回は稀代の謀将、毛利元就についてわかりやすく解説します。

幼少期から成人するまでの毛利元就

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元就が生まれた安芸国は、山口に本拠を置く大内氏と出雲の月山富田城に本拠を置く尼子氏の勢力に挟まれていました。元就の父である毛利弘元は室町幕府と大内氏の争いに巻き込まれ、隠居を余儀なくされます。隠居した父弘元は1506年に死去。そこから元就の苦難に満ちた幼少時代が始まりました。

父を失い苦労を重ねた幼少期

元就が生まれた毛利家は現在の広島県にあたる安芸国の国人領主でした。国人とは地元の村落を支配する領主のこと。元就の父である毛利弘元の時代、毛利家は周防・長門を支配する守護大名の大内氏に属します。

室町幕府と大内氏の争いに巻き込まれてしまった毛利弘元は、家督を嫡男の毛利興元に譲り、幼かった元就を連れて多治比猿掛城に隠居せざるをえませんでした。

1506年、弘元がこの世を去ると元就は引き続き多治比猿掛城に居住します。しかし、家臣の井上元盛が元就を城から追い出し、所領を奪い取ってしまいました。元就は4年後に多治比猿掛城を取り戻すまで、養母杉大方のもとに身を寄せます。

1511年、元就は多治比猿掛城を取り戻し、兄の許可を得て元服しました。この時、元就は多治比元就を名乗り分家を起こします。それから5年後の1516年、兄の興元が急死。兄の子である幸松丸が毛利本家を相続しますが、家中は動揺します。この時、元就は親族筆頭として毛利本家を支えました。

初陣となった有田中井手の戦いでの勝利

弘元、興元と二代続けて当主が急死し、幼い主君をいただかざるを得なくなった毛利家には動揺が広がります。1516年、この隙をついて佐東銀山城(さとうかなやまじょう)の城主であった武田元繫が吉川氏の所有していた有田城に攻め寄せました。

元就は幼い幸松丸の代理として毛利軍を率い吉川家の援軍に向かいます。元就にとって武田氏と戦った有田中井手の戦いは初陣でしたが、臆することなく毛利全軍を指揮。武田軍の先鋒を打ち破ると武田の本軍へと肉薄します。

一進一退の攻防が続く中、毛利軍による弓の一斉射撃によって武田元繫が戦死。武田勢は総崩れとなって退却しました。かつて安芸国の守護だった武田氏は有田中井手の敗戦を境に衰退します。一方の毛利軍と戦いの指揮を執った元就の武名はあがりました

二大勢力に挟まれた毛利家の当主となった元就

有田中井手の戦いの前まで大内家に従っていた元就は、新興勢力で力を増していた山陰の尼子氏に鞍替えします。時の尼子家当主は謀聖とも称された尼子経久

尼子方についた元就は大内方の鏡山城を謀略で陥落させました。この時の手際の良さが経久の警戒を誘ったといいます。

1523年、幸松丸が9歳で死去すると、重臣たちは元就を当主として迎え入れました。尼子経久は元就の当主就任を快く思わない毛利家臣を動かして元就の排除をはかるも失敗。元就は反対派を一掃して権力基盤を固めました。

尼子経久と対立した元就は大内義興の傘下に加わることを決断します。その一方で、長年対立してきた宍戸氏との関係を改善。安芸国人衆の中で毛利家は力を強め、頭一つ抜けた存在になっていきました。

大内と尼子という二大勢力に挟まれた元就は両勢力との距離を絶妙にとりつつ、毛利家の勢力を拡大させようとしたのです。

安芸の国人衆を束ねて勢力を拡大

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大内氏の傘下に加わった元就に対し、尼子氏は毛利氏の居城である吉田郡山城に大軍を派遣します。大内軍の来援でからくも尼子氏を撃退した元就は、大内軍とともに尼子氏の本拠である月山富田城を攻めました。しかし、尼子軍の反撃にあい命からがら安芸に逃げ帰ります。また、元就は二人の息子を安芸の有力豪族である吉川家と小早川家の養子として送り込みました。のちに、毛利両川といわれる体制の始まりです。

尼子軍が攻めてきた!吉田郡山城の戦い

元就は1533年、義興の後を継いでいた大内義隆を通じ朝廷を献上。従五位下右馬頭に任命されます。これにより、毛利家は朝廷や大内氏の後ろ盾があることを安芸国内にアピールすることができました。

1540年、尼子経久の後を継いだ尼子詮久は3万の大軍を動員。元就の居城である吉田郡山城に攻めこみます。これに対し、元就は2,400の兵をひきいて吉田郡山城に籠城。大内氏に援軍を要請しました。

毛利軍は吉田郡山城周辺での局地戦で尼子軍に勝利。大内氏の援軍が到着するまで持ちこたえる戦術を取りました。大内軍が来援すると、徐々に毛利・大内軍が尼子軍よりも優勢になっていきます。

思うように戦果を上げられない尼子詮久は吉田郡山城の攻略を断念し出雲に撤退しました。その後、元就は安芸武田氏を攻め滅ぼし、安芸での勢力を拡大します。

出雲遠征の失敗

吉田郡山城の戦いで、安芸国での尼子氏と大内氏の勢力が逆転します。優勢な立場に立った大内義隆は尼子氏の本拠である出雲の月山富田城の攻略を企図。1542年、大内義隆自らが総大将となって出雲に攻め込みました。元就も大内方の一軍として戦いに参加します。

劣勢の尼子軍はゲリラ戦を展開し、大内軍の食糧輸送を脅かしました。その上、一度は大内方についた吉川興経らが尼子方に寝返るなどしたため、大内方の劣勢は明らかになります。

戦力が低下し、食糧不足に見舞われた大内軍は撤退を開始。尼子軍はこの機を逃すまいと徹底的に追撃したため、大内軍は大損害を出します。

このとき、元就は最後尾を守る殿を命じられました。尼子川の猛攻と土一揆の待ち伏せなどにより壊滅的被害を受けた元就は、命からがら吉田郡山城に逃げ込みます。

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