幼くして父を亡くし、苦労を重ねた少年時代
三好長慶は少年時代に父親を亡くし、四国へ亡命するという苦難の道を歩みました。しかし、元来優秀だった彼はすぐに頭角を現し、畿内へと舞い戻ります。ただ、戻った先の主君や同僚は、父の仇でした。その中で雌伏の時を過ごした彼の様子を見ていきましょう。
父を殺され、畿内を追われる
大永2(1522)年、長慶は山城国(京都府南部)の守護代にして阿波(徳島県)に本拠地を置く武将・三好元長(みよしもとなが)の長男として生まれました。
父・元長は室町幕府のNo.2である管領(かんれい)・細川晴元(ほそかわはるもと)の重臣で、晴元の政敵である細川高国(ほそかわたかくに)を滅ぼすなど大きな功績を挙げていました。
しかし、あまりに元長の力が大きくなりすぎたため、主君の晴元や同僚、ひいては同じ三好一族までもが彼を危険視し、一揆を煽動して元長を殺させてしまったのです。これが享禄5(1532)年のことで、長慶はまだ11歳でした。そして彼は、母や幼い弟たちと共に、四国・阿波へと落ち延びて行ったのでした。
12歳で一揆を調停!
細川晴元らが煽動した一揆は、一向一揆(いっこういっき)という類の厄介なものでした。一向一揆とは、浄土真宗本願寺教団の信徒たちによる権力者への抵抗だったのですが、本願寺の力が強まるにつれ、なかなか収拾できないものとなっていったのです。そして、晴元らが炊きつけたこの一向一揆は、享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)という大規模なものに発展し、どうすることもできなくなってしまったのでした。
そこへ登場したのが、四国へ避難していた長慶です。当時はまだ元服さえしていない12歳の少年だったと言いますが、彼はここで一揆と晴元方との仲介役となり、見事和睦に持っていったというんですよ。末恐ろしいほどの能力を秘めた、まさに神童だったわけです。
これで長慶の力を認めざるを得なくなった細川晴元は、長慶に帰参を許しました。晴元の側近・木沢長政(きざわながまさ)の口添えがあったと言いますが、晴元も長政も、長慶にとっては父の仇だったのです。
そんなところに戻ってきた長慶ですが、その胸に秘められた思いは、まだ誰にも明かすことはありませんでした。
こちらの記事もおすすめ
長慶を助けた優秀な弟たち
長慶はその後、15歳で一向一揆を全滅させるという偉業を成し遂げました。
やがて、幕府No.2であり長慶の主でもある細川晴元は、将軍・足利義晴(あしかがよしはる)と対立するようになります。そして将軍が晴元の政敵と結んで挙兵すると、長慶はそれらの兵を相手にする役割を命じられました。この時、彼を助けたのは、成長した頼もしい弟たち:三好実休(みよしじっきゅう)、安宅冬康(あたぎふゆやす)、十河一存(そごうかずまさ)だったのです。後述の2人は他家に養子に入っていましたが、これで長慶の勢力を四国で増大させただけではなく、何よりも本家の兄を助けるという思いが強く、長慶にとっては心強い存在となっていました。
弟たちの力も借り、長慶は足利義晴らを近江(おうみ/滋賀県)に追いやるという大功を挙げ、晴元配下の家臣の中では随一の実力者となったのです。
29歳の若さで政権樹立、最初の「天下人」となる
細川晴元の下で実力をつけた長慶は、やがて晴元と対立するようになっていきました。元々、父の仇ですから、いつかは彼を排除しなくてはならない運命だったのです。そして晴元一派を追放し実権を握った彼は、29歳にして天下の中心である都を手に収め、天下人も同然の存在となったのでした。長慶の快進撃を見ていきましょう。
父の仇を討ちたい!動き始めた長慶
実力十分となった長慶は、父の仇を討とうと決心します。
まずは増長し孤立を深めていた木沢長政を討伐し、討死させました。そして、同族の三好政長(みよしまさなが)をも滅ぼすこととなります。
元々、裏で暗躍して父・元長を一向一揆に殺させたのは、政長でした。仇を討ちたいと晴元に申し出た長慶ですが、自分も一枚噛んでいた晴元が、それを許すわけもありません。それまでにも、政長が父から奪うような形となった河内(かわち/大阪府東部)を自分に与えてほしいと常々長慶は願い出ていたのですが、それも果たされずにいたのです。
政長の追討案を晴元にべもなく却下された長慶は、それならば晴元も敵だと腹をくくりました。そして、かつて晴元に敵対し、長慶自ら対戦した細川氏綱(ほそかわうじつな)と手を組み、挙兵したのです。
仇を討ち、主を追放して三好政権を樹立
江口の戦いと呼ばれたこの戦に、長慶は勝利を収め、仇討ちは達成されました。もちろん、彼に協力した弟たちの働きも大きかったのです。加えて、細川晴元や彼と和睦していた前将軍・足利義晴と息子で将軍の足利義輝(あしかがよしてる)を近江に追いやり、晴元の後釜には傀儡としての細川氏綱を据え、長慶は事実上の三好政権を誕生させたのでした。天文19(1550)年、長慶は29歳でした。
幕府の中枢にいるべき将軍を追放し、No.2の管領を傀儡とし、都を掌握したことは、天下を取ったも同然。このため、長慶は、近年になって「最初の天下人」と呼ばれるようになったわけです。
こちらの記事もおすすめ
末期の室町幕府に現れた剣豪将軍「足利義輝」の志と悲劇ーわかりやすく解説 – Rinto~凛と~