安土桃山時代日本の歴史

5分でわかる「森蘭丸(成利)」信長の小姓は本当に美少年?わかりやすく解説

戦国武将の中でもちょっと影が薄い「森蘭丸(もりらんまる)」。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」で有名な織田信長からの、才能を見出され寵愛を受けた小姓でした。機知に富んでおり、美少年と呼ばれるほど見栄えもよかった「蘭丸」ですが、残念なことに19歳という若さで命を落としています。いったい「森蘭丸」とはどんな人物だったのでしょう。

1.利発な美少年森蘭丸とは?

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「森蘭丸(もりらんまる)」っていわれると誰?って思う人もいるかもしれませんが、”「織田信長(おだのぶなが)」の小姓で「本能寺の変」の際に命を共にした美少年。”と聞くと「ああ」と答えが返ってくるのでは?森蘭丸とは、いったいどんな人物だったのでしょう。

1-1信長の最も近くにいた重要人物

織田信長の一代記『信長公記(しんちょうこうき)』に、蘭丸が登場したのは、天正7(1579)年から「本能寺の変」までのたったの3年間です。2年ほどで領地を拝領し一城の主となり、小姓の域を超える出世をします。しかし、信長は側に置き続け、決して手放しませんでした。

蘭丸は、織田政権の中枢に身を置き、信長の秘書官的役割を担います。何事にも信長の一歩先を読む鋭敏な頭脳の持ち主で、世の中の動きに素早く反応したようです。機敏な対応でどんな危機に陥ろうとも、明敏な判断ができる人物だったといわれています。

戦争のない世の中になることを渇望し、信長の「天下統一」を心底願っていたとか。だから、激動の戦国時代にありながら、欲を出さずに仕えることができたのでしょう。

1-2本当に蘭丸って美少年だったの?

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不明 – 岡山県津山市・妙願寺所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

森蘭丸といえば、イケメン戦国武将BEST10に必ずというほど入っています。でも、美少年って本当なんでしょうか?若くして亡くなったこともあり、肖像画などが残っておらず、残念ながらどのような美少年だったかを確認できません。

母妙向尼と兄長可の肖像画が残っているんです。この時代の美人の代表格「お市の方」の肖像画は、ふっくらとした面長の色白で切れ長の目で書かれています。妙向尼も同じく、当時の美人の要素が備わっていました。蘭丸においては、母親譲りの色白で切れ長の目をした、涼しげで利発な顔だちをした美少年だったのではと推測されます。

責任感が強く職責は確実に果たす聡明で機知に長けた能力と短命という不運を背負ったスター性をから、美しさにより拍車がかかっていることも否めないでしょう。また、残る甲冑からは、身長は約160cmで、筋骨隆々というより美少年という言葉が似合う体型だったようです。

2.蘭丸の幼少期は?

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森蘭丸(もりらんまる)は、織田信長に仕える安土桃山時代の武将です。本名は「森成利(もりなりとし)」。後に、信長から長の文字を貰い「森長定」と改名しています。別名蘭丸の「蘭」ではなく、本当は「乱」と書き「乱丸」や「乱法師」と、名前には色々説があるようです。

2-1名門家森一族に生まれた森蘭丸

美濃国金山(現:岐阜県可児市兼山)にある美濃金山城(烏峰城)で、永禄8年(1565)の秋に生まれました。現在も、岐阜県可児市には、美濃金山城址が残っています。父は「森可成(もりよしなり)」、母は「えい(後の妙向尼(みょうこうに)」です。二人の間にできた子供は6男3女。蘭丸は3男で、幼い時から容姿は抜群で眉目秀麗の秀才だったと伝えられています。

森一族は美濃源氏の嫡流として、美濃国守護大名の土岐氏や美濃全土を統一した織田家に召し抱えられました。信長や秀吉、家康といった三英傑(さんえいけつ)とされる天下人ほどではありませんが、森一族と呼ばれる長い歴史を誇る名門。清和源氏の河内源氏の流れをくむ武家で、父可成は若い頃斉藤道三の客将であり、織田軍と戦ったことがあるようです。

3.どうして蘭丸は信長に仕えた?

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蘭丸が仕えるようになったのは、槍の名手だった父が宇佐山城の戦いで浅井朝倉連合軍に攻められ戦死したことを、信長が深く悲しんだからです。当時18歳だった名将と呼ばれる兄の森可隆(もりよしたか)も、4ヶ月前に姉川の戦いで戦死しています。その時の家督は、次男の森勝蔵長可(もりしょうぞうながよし)が13歳で継ぎました。

3-1蘭丸の家族も信長に尽くした忠臣だった

信長が比叡山を焼き討ちにしたことはご存知でしょう。父可成が宇佐山城の戦いで、形勢が不利になった時に信長へ伝令を出しました。既に比叡山の僧兵が詰めており、使者をことごとく討ったため、信長にその情報が届かなかったようです。この遺恨も、後に信長が比叡山焼き討ちをする起因になったとか。信長からの厚い信頼を得ていたんですね。

母妙向尼は織田信長と石山本願寺が争った「石山合戦」で、和睦の成立に奔走したとか。このとき、蘭丸を通じて信長に直談判をしています。歯向かったものには容赦しない恐ろしい信長の前で、「争いが続けば我が3人の息子も、仏に弓を引くことになる。その時は、息子を殺し私も死ぬ。」と言い放ち、本願寺焼き討ちの中止を約束させました。本願寺には一揆を起こさないと約束させ、指導者顕如(けんにょ)が去ることで決着しました。和睦は叶うも、末息子の忠政(ただまさ)が出家する羽目になったようです。

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