日本の歴史江戸時代

外様大名って何?他に何大名があるの?江戸時代の「大名」事情

職場やご近所づきあいで、ふと「あの人、トザマだからなぁ」なんてセリフ、耳にしたことはありませんか?トザマとは「外様」のこと。現代では「よそ者」という意味でよく使われます。「身内ではないので頑張っても大して出世できない」という状況をやんわり表現するときに使うことがありますが、これはおそらく、「外様大名」という大名の種類から来ているもの。「外様大名」とはどんな大名なのでしょうか。今回は大名の種類や意味、歴史をたどりながら「外様大名」について詳しく見ていきたいと思います。

そもそも「大名」とは何?大名の語源・由来・歴史を知る

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「大名行列」「大名屋敷」「大名切り」など、何となく豪勢で贅沢なイメージのある「大名」という単語。江戸時代の偉い武士のことかと思いきや、「大名」という言葉はもっと昔から使われていたようです。「大名」という言葉の由来をたどりながら、様々な「大名」について解説いたします。

「守護大名」とは?~大名の変遷(1)

小作人たちにしっかりとお米を作らせて年貢を納めさせること。これをしっかりやらないと、いくら朝廷や貴族たちでも飢えてしまいます。ちゃんと作ったお米を誰かに奪われたりしたら大変です。

鎌倉時代、源頼朝は守護と地頭という役職を設け、地方の田んぼの管理や年貢の取り立てなどを見守らせます。現代でいうところの警察のような役割です。

各地域に一人、守護を置き、荘園などに対し細かく地頭を配置していきます。基本的には、源頼朝が信頼する御家人たちが出張して守護を務めていました。

年貢の取り立てや田んぼの管理が主な仕事でしたが、罪人の捕縛など地域の治安維持や、政治そのものも任されていたと考えられています。

鎌倉時代にはそれほど強い権限を持っていなかった守護たちですが、室町時代になると、かなりの権限を持つように。有力な守護たちは「守護大名」と呼ばれるようになります。守護の中でも力の強い人たち、ということでしょうか。守護大名たちは大きな領地を持ち、お米もたくさん収穫。都でも大きな力を持つようになります。

室町幕府では、将軍家の後継者争いが続き、それに乗じて、有力な守護大名たちが互いに争いあうようになっていきました。地元のことはほったらかし。都で争いあっているうちに応仁の乱のような戦争も起きて、中央でごたごたしているうちに、ほったらかし守護に愛想をつかした地元の民衆に領地を乗っ取られてしまいます。

「戦国大名」とは?~大名の変遷(2)

中央でごたごたと勢力争いに興じているうちに、自分たちが仕えていた室町幕府は弱体。自分の地元は荒れ放題。守護大名たちの力も衰えていきます。

代わりに力を持ち始めたのが、地元で力をつけた国人たちです。

国人とは、要するに地元に暮らす一般市民の総称。中でも、もともと守護大名の秘書官のような仕事についていた国人たちが、守護大名が留守中、領地の管理をしながら力をつけていきました。

現代に例えるなら、支店長たちが支店の運営をほったらかしにして、本店での出世争いにばかり気を取られているような感じでしょうか。支店の売り上げが下がれば本店もぐらつきます。慌てて自分の支店に戻ってみると、副支店長や係長たちが必死になって支店を切り盛りしており、社員たちもみんな、頼りにならない支店長のことなどなど見向きもしません。まるで池井戸潤さんの小説のようなことが、室町時代に起きていたのです。

ここで力をつけ始めた国人たち、出征や役職は様々ですが、どんどん力をつけて頭角を現していきます。与えられた権力ではなく、武力や知力、バイタリティでつかみ取った立場。この人たちのことを総称して「戦国大名」と呼んでいます。

北条早雲や斎藤道三が戦国大名の先駆け。のちの戦国時代の中心となる武田家や伊達家、織田家も戦国大名。大きな守護大名を倒して下からのし上がることを「下剋上」と呼んでいます。

親藩・譜代・外様……江戸時代に入ってからの大名の種類

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話がかなり遠回りになってしまいましたが、「大名」とは、常に「地域のリーダー」として権力を持っていた人たちのことを呼ぶ呼び名だったわけです。戦国時代を経て江戸時代に入ると、大名の意味合いも大きく変わってきます。「外様大名」という呼び名が使われるようになった江戸時代の大名事情について見ていきましょう。

江戸時代の大名とは?~大名の変遷(3)

戦国時代末期、関ケ原の戦いによって、徳川家康率いる徳川家が天下を掌握したことは周知のとおりです。以後、争いのない世の中を作るためには、徳川に敵対する勢力や、敵対したことがある勢力の処遇を考えなければなりません。

しかし、かといって、一家皆殺しなど敵対勢力を激しく処断することも、遺恨を生み、その後の争いの火種になりかねません。

そこで、徳川幕府は、各地の大名を大きく3つに分けて考えることにしました。親藩、譜代、外様の3つです。

それぞれの違いについて見る前に、まず、江戸時代の大名の基本的な情報を押さえておきましょう。

まず、大名とは、禄(給与)として幕府から石高1万石以上の領地を与えられた藩主のことを指すようになります。

1石(いっこく)とは「1年間に食べる米の量」を表す単位。だいたい100升、1000合、重さにするとおよそ150kgほどになります。一人で暮らすなら十分すぎるほどですが、家臣を養ったり、領地内の整備など何かとお金がかかる領主という立場。1万石ではカツカツだったとの見方もあるそうです。

親藩:徳川家康直径の子孫・親族が中心・信頼度(大)

戦国時代から江戸幕府を開くまで、いろいろごたごたしましたので、信頼できる人たちを身近に置いておきたいと思うのはごく自然なことです。

信頼できる人たちとは、すなわち、徳川家康の血をひく直系の家族や親戚筋。この人たちに、日本各地の重要な地域を任せておけば安心でしょう。

中でも有名なのが、徳川御三家と呼ばれる尾張、紀州、水戸。徳川将軍家の後継に男子がいない場合は、この御三家から将軍候補を出すよう、将軍跡目争いが起きないようしっかりと取り決めがなされていました。8代将軍徳川吉宗と14代将軍徳川家茂は紀州、最後の将軍徳川慶喜は水戸から出た将軍です。

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