日本の歴史江戸時代

「旗本」はつらいよー江戸時代のサラリーマンたちの苦労と悲哀を解説

最近はなかなか民放時代劇が放映されていないせいか、時代劇番組に触れる機会も少なくなってきました。それでも過去の再放送などを見ていると、「旗本」とか「勘定奉行」とか「お目付け」などという役職を持った人たちがよく出てくると思います。どちらかといえば悪徳商人と結託した存在で、最後は主人公に討ち果たされてしまうというのがお決まりのパターンなのですが、「越後屋、そちもワルよのう。」なんていう名セリフに代表されるように、しこたまカネを貯めこみ、不正を働き、悪事の限りを尽くすというイメージが強いかと思います。でも、実際はどうだったのでしょう?時代劇からはなかなか読み取れない実際の旗本や御家人たちの実情や暮らし、そして悲哀ぶりを解き明かしていくことにしましょう。

「旗本・御家人」はそもそもどんな存在?

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江戸時代以前から「旗本・御家人」という名称は存在していましたが、せっかく【江戸時代のサラリーマン】とお題が付いていますので、江戸時代における旗本や御家人のことについて解説していきますね。まずは基礎知識編から。

元々は親衛隊だった?~「旗本」の語源~

話をちょっと戦国時代にまでさかのぼらせますが、戦いの際に戦力となった武将たちは、独立性の強い存在でした。いわば今の会社に例えれば「子会社」のようなものです。コンビニチェーンで例えれば、フランチャイズオーナーみたいな存在になるでしょうか。

指揮を執るのは総大将になりますが、大事な総大将が丸裸のままでは危ないわけで、もちろん警護する兵隊が必要ですよね。そこで本陣を警護するための親衛隊の役割を担ったのが、「旗本」という存在だったのです。本陣には総大将の存在を示す軍旗や馬印がありますから、軍旗の下で絶えず控えていたから「旗本」という名称が付いたのですね。

江戸時代になると彼ら親衛隊は優遇され、軍旗の下で控えていた頃と同じように、江戸城城下で控えるようになりました。ちなみに「御家人」とは、徳川家に付き従っていた足軽のことで、江戸時代になってから足軽身分から引き上げられ、江戸城下を警護する役目に出世したのですね。

徳川幕府の歯車の役割を果たした旗本たち

江戸時代はとにかく平和な時代。幕末まで戦いらしい戦いは起こりませんでした。とはいっても徳川将軍家直属の部下たちですから、もし戦いになれば将軍を守らねばなりません。ですから、ほとんどの旗本・御家人たちは江戸での生活を送ることになりました。

平和な時だからこそ幕府の政治機構を動かす歯車として、それぞれに役職が与えられることになりました。もちろん普段の俸禄の他に役職手当ももらえますから、それはそれはおいしい仕事だったと言えるかも知れませんね。しかし旗本が5,000人、御家人が17,000人もいますから、彼ら全員においしい役職を振り分けるのは無理な話。能力や家柄などによって待遇の差は歴然としていました。

江戸時代初期には、まだまだ戦国の頃の気風が残っていたため、武官(軍事・警備を担当する)が幅を利かせていましたが、太平の世が続くと次第に文官(行政や経理を担当する)の待遇のほうに重きが置かれ、典型的な出世コースとなったのです。

旗本と御家人の違いとは?【旗本編】

・代替わりごとに将軍に拝謁できる。

・戦いの際には馬に乗れる。(騎乗)

・100~500石取りが半数以上。1,000石をもらう大身の者もいた。

・なれる役職

江戸城や将軍の警備をする番方(大番、書院番、小姓組番、小十人組など)

行政を司る役方(町奉行、勘定奉行、遠国奉行、大目付、目付など)

旗本と御家人の違いとは?【御家人編】

・将軍には拝謁はできない。

・戦いの際には徒歩。(歩兵)

・ほとんどが50俵(石)以下。

・なれる役職

各奉行所などへの勤務や、与力・同心など城下の治安を警護・維持する役目。御家人の中でも家格が分かれるため、就ける役職も異なりました。

江戸時代のリーマン・ショックに泣かされる旗本・御家人たち

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徳川将軍家直属のエリートともいえる旗本・御家人たち。「旗本八万騎」とも称され、万が一の際には幕府の主戦力となるはずでした。しかし平和な時代が続くと、その数の多さや、大消費地江戸に定住していることが仇になり、困窮していくことになります。貨幣経済の繁栄の陰で、泣かされた旗本・御家人たちもまた多かったのです。

エリートといえども、お金はかかる江戸暮らし

武士は税金は取られないし、家賃も掛からないし、俸禄をもらうだけだから楽なもの。と思いがち。しかし、まったくそんなことはなくて、日々の生活は大変苦しいものでした。

大身の旗本であれば、広い知行地(いわゆる領地のこと)からたくさん収入がありますが、ほとんどの旗本・御家人たちは、わずかな知行地からの収入や俸禄(いわゆる給料)をもらって生活していました。もちろん養うべき家族もいますし、槍持ち、草履取、挟み箱持ちなどの中間(主人に仕える奉公人)や、屋敷で働く使用人などの給金も支払わねばなりません。いくら経済的に苦しいからといって中間を解雇するわけにはいきません。なぜなら、いざ合戦となれば付き従うのが彼らであり、軍役も決められているために補充が利かないからです。

仮に知行地を100石持っているとして、当時の税制の場合、四公六民(武士が40%、農民が60%)が一般的でしたから、取り分が40石となり、今の円換算をすれば約300万円となります。役職手当がもらえるとはいえ、限られた年収から生活費や人件費などを捻出するのは大変だったことでしょう。

また、いつ合戦が起こってもいいように武具はなるべく新しいものを揃えねばなりませんし、旗本の場合は騎乗武士ですから乗馬も持たなくてはなりません。更にいえば、役目で江戸城へ登城する時など着古した裃を着るわけにもいきませんから、服飾費も馬鹿にはなりません。

まだまだありますが、家格を保つためには交際費も欠かせません。そこをケチると「格に見合わない行為」だとして出世にも響くのですね。

収入は増えることはないのに、支出だけはどんどん出ていってしまう。そんな苦しい状況で旗本。御家人たちは暮らしていたのですね。

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明石則実