- 1.朝廷にとって江戸時代はどんな時代だった?
- 1-2.官職が貴族だけのものではなくなった時代
- 1-2.力を失った朝廷や貴族
- 1-3.武士がいなければ存在できない朝廷
- 1-4.朝廷の権威をうまく利用しようとした豊臣秀吉
- 1-5.朝廷をがんじがらめにしようとした徳川幕府
- 1-6.朝廷と幕府の立場が逆転
- 2.江戸幕府と朝廷の関係とは?
- 2-1.そもそも「幕府」とはどんな意味?
- 2-2.武士政権が「幕府」と呼ばれるようになるのは後世のこと
- 2-3.幕府は、朝廷から委任されたもの
- 2-4.幕府の言いなりとなる朝廷
- 2-5.幕府が朝廷を抑え込もうとした理由
- 3.「禁中並公家諸法度」とはどんな内容?
- 3-1.第一条【天皇の主務】
- 3-2.第二条【三公の座次】
- 3-3.第三条【清華家の大臣辞任後の座次】
- 3-4.第四、五条【摂関の任免】
- 3-5.第六条【養子】
- 3-6.第七条【武家官位】
- 3-7.第八条【改元】
- 3-8.第九条【天子以下諸臣の衣服】
- 3-9.第十条【諸家昇進の次第】
- 3-10.第十一、十二条【関白や武家伝奏などの申渡違背者への罰則】
- 3-11.第十三条【摂関門跡の座次】
- 3-12.第十四、十五条【僧正、門跡、院家の任命叙任】
- 3-13.第十六条【紫衣の寺住持職】
- 3-14.第十七条【上人号】
- 4.あまりの幕府の横槍に天皇の不満が爆発!
- 4-1.幕府からの苛烈な圧迫を受ける後水尾天皇
- 4-2.後水尾天皇の不満が鬱積
- 4-2.そして起こった紫衣事件
- 4-3.幕府側の強硬な態度
- 4-4.幕府側のあまりの不遜さに怒りを覚える
- 4-5.後水尾天皇、法度の及ばない上皇となる
- 幕末、ついに立場が逆転
この記事の目次
1.朝廷にとって江戸時代はどんな時代だった?
まず禁中並公家諸法度を解説する前に、当時の朝廷が日本にとってどんな存在だったのか?少し説明していきますね。
1-2.官職が貴族だけのものではなくなった時代
元々、日本には中国にならった「位階」という官職の順序がありました。歴史の授業でも、一番上は太政大臣だと習いましたし、あとは参議だとか、大納言だとか、小倉百人一首でもおなじみのネーミングが並びますよね?
当初は貴族(お公家さん)だけのものだったのですが、力を付けた武士たちでも官職をもらえるようになりました。やがて戦国時代になり、武士たちが勝手気ままになり始めると、勝手に自分で官職を名乗る不届き者もいたくらいです。
1-2.力を失った朝廷や貴族
朝廷に仕えるお公家さんたちは、位こそ高いものの実力が伴わなくなりました。なぜなら、かつて荘園などの広い領地を持っていたにも関わらず、力のある武士たちに奪われていったからですね。
「マロたちは武士たちより偉いのだ!」とは言うものの、衣食にも事欠く貧乏公家が多くなっていたという現実があります。
また天皇も例外ではありません。皇室があまりに貧乏なために、天皇が亡くなっても葬儀を行うためのカネもなく、次の天皇の即位式を行うためのカネもありません。
戦国時代の真っ只中に即位した後奈良天皇などは、自分の直筆の書を売って生活の足しにしていたそうですから、その貧乏ぶりがわかりますよね。
1-3.武士がいなければ存在できない朝廷
令和元年に新しい天皇陛下が即位されましたが、この即位関連の予算を見ると、なんと166億円!も掛かっているそう。当時も今も、朝廷の行事はカネが掛かるものなのです。
ちなみに戦国時代の朝廷はカネがまったくありません。でも伝統ある宮廷行事は行わなければならない。ではどうするか?力のある武士の力を借りるしかないでしょう。
まさか武士からカネを借りるわけにはいきませんから、寄付金として援助してもらうしかありませんよね。
1-4.朝廷の権威をうまく利用しようとした豊臣秀吉
とはいえ武士もボランティアではありません。気前よくカネを出すものの、当然見返りを要求してきます。高い位を要求したり、お公家さんの娘を嫁にもらうなど、最大限に朝廷や貴族の権威を利用することが行われました。
その最たるものが豊臣秀吉でしょうか。元は農民のセガレながら関白にまで昇りつめた成功の秘訣は、やはりカネの力で朝廷の権威を利用することだったのです。
カネの力で朝廷を取り込み、そして自分自身も朝廷の権威をバックにしてトップ貴族となりました。そこが生粋の武士の生まれでない秀吉のアイデンティティだったのかも知れませんね。
1-5.朝廷をがんじがらめにしようとした徳川幕府
源氏出身でも平氏出身でもなかった秀吉は、自らが貴族になることで朝廷の力を取り込もうとしました。しかし次に政権を担った徳川幕府は違いました。
京都から遠く離れた江戸に幕府を置き、「武士は武士」「朝廷は朝廷」というふうに完全に切り離したのです。
「朝廷はきちんと敬うけど、政治を任せてもらった以上はこっちで勝手にやらせてもらいます!」
というスタンスがピッタリくるでしょうか。しかし朝廷をそのまま放置しておけば、どこかの勢力が朝廷を取り込んで悪さをするかも知れない。そう考えた幕府は、法律によって朝廷をがんじがらめにすることを思いつきました。
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1-6.朝廷と幕府の立場が逆転
秀吉の場合は、カネをジャブジャブ使って朝廷をヨイショする方向でうまくいっていましたが、はっきり言って徳川幕府は「超」が付くほどのドケチです。カネを使わずに法律で縛るという悪知恵がよく働くものだと感心しますね。
ともあれ「猪熊事件」という朝廷の一大スキャンダル事件をきっかけにして、禁中並公家諸法度が制定されたとされていますが、朝廷をただの「お飾り」にするべく幕府が狙っていた口実だったのです。
そもそも天皇を中心とした朝廷は、法によって縛られる存在ではありません。朝廷の下部組織であるはずの幕府が、そのような手段に出ることは異常なことでした。
※猪熊事件とは?
江戸時代初期に起きた朝廷の一大スキャンダル事件。
複数のお公家さんたちが絡み、宮中での不義密通(いわゆる不倫)を幾度となく起こして乱痴気騒ぎに発展しました。挙句の果てに後陽成天皇の愛妾にまで手を出し、天皇は大激怒。そして事が発覚するや、朝廷や幕府に衝撃が走りました。
「朝廷のこのような乱れは不届き千万!これからは幕府がしっかりと監視し、風紀を取り締まるから覚悟するように!」
そういったことで禁中並公家諸法度が制定されるキッカケになりました。
2.江戸幕府と朝廷の関係とは?
ここで当時の江戸幕府と朝廷の関係について解説していきましょう。なぜ幕府が朝廷に対して命令するような立場になったのか?そこには社会秩序を築き上げようとする徳川氏の思惑があったのです。
2-1.そもそも「幕府」とはどんな意味?
幕府の「幕」という字は「戦場で大将のいる場所」いわゆる本陣という意味になります。それが拡大解釈されて、武士が政治を行う「府」、つまり行政府となったのです。
そんな武士たちのトップに君臨するのが「征夷大将軍」という存在なのですが、元々は奈良・平安時代に東北地方の蝦夷を征伐するための将軍という意味でした。坂上田村麻呂などが有名ですね。
ところが源頼朝が鎌倉幕府を開く際に、どうしても立場にふさわしい官職が必要になりました。頼朝は奥州藤原氏を滅ぼそうと考えていましたから、藤原氏を蝦夷になぞらえて、ずっと途絶えていた征夷大将軍に無理やり任命させたのです。
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