安土桃山時代日本の歴史

5分でわかる「森蘭丸(成利)」信長の小姓は本当に美少年?わかりやすく解説

4-2小姓は家臣の運命も掌握していた

実は、根回し上手の秀吉は、小姓にも金品贈答を欠かさず評判がよかったとか。一方、「本能寺の変」を後に起こす光秀は、小姓対策を一切しなかったようです。小姓たちは生真面目で融通の利かない光秀を嫌い、小姓たちの噂を耳にする信長にも疎んぜられたという説もあります。

蘭丸は『信長公記(しんちょうこうき)』の中で、使者としての活躍も記されているんです。信長の使者として、塩河伯耆守へ銀子100枚を届けたり、武田の旧家臣たちに朱印状を届けたりと大活躍だったと書かれています。

4-3優秀なスパイ?

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武田が滅亡し、信長の次の敵は上杉謙信でした。蘭丸は信長の使いで、越後の上杉謙信の屋敷に忍び込みます。虚無僧に変装し、誰が見ても蘭丸とは分からなかったとか。しかし、尺八を吹いた時、不意に蘭丸の目を見た謙信から「そちは、織田の蘭丸ではないか?」と問われたとき、蘭丸は覚悟し懐刀で自刃を図るも謙信に止められています。

謙信も蘭丸の噂を聞いており、ここで殺すのはもったいないと思ったようです。「世が許すから、城を見て回れ」と案内まで付けてくれました。城内だけでなく、城下まで案内を受けています。この堂々たるスパイ行動には、信長も大喜び。上杉領内のことを、色々尋ね上機嫌でした。

何をさせても信長の期待を上回る成果を上げる蘭丸には、「天下無二の秀才」とほめ言葉を送ったとか。明智光秀の謀反がなければ、織田信長は間違いなく天下を取ったと思われます。森蘭丸は、信長のもとどれだけの働きをしたことでしょう。

4-4独立を許されなかった蘭丸

15歳になった蘭丸は、自分の兜を手にそろそろ元服をして前髪を落とし(独立)たいと申し出ます。信長の答えは「独立など許さん。時が来たら城を与え大名にする。月代をそるなどは、お前には似合わん。」だったのです。

織田政権の財務に明るく、人を見る力と家臣たちのあしらいの上手さを認めており、手放せなかったのでしょう。言葉通りに信長から城を与えられ、大名になっても前髪立ちのままの美少年を通しています

母妙向尼が作った蘭丸の兜の飾りは、「南無阿弥陀仏」という文字です。この名号は、母の直筆とか。天下統一の際に信長を最も苦しめたのは、本願寺の宗徒たちの一向一揆です。最も信頼する蘭丸の兜を、信長はどんな思いで見ていたのでしょう。また、信長から短刀「不動行光(藤三郎行光作)」を下賜されています。蘭丸は槍の使い手として有名ですが、この短刀をいつも所持していました。「本能寺の変」で焼失したようです。

4-5 蘭丸18歳で大名となる

天正10年(1582)に武田勝頼を討った甲州征伐に貢献したと、父の居城で自身も生まれ育った金山城が与えられています。兄長可が同戦で獅子奮迅の活躍した功労賞として、信濃国の高井、水内、更科、埴科の加増と居城を川中島城へと領地替えされたからです。これは、森家にとって破格の処遇でした。

18歳で城主となるも、忙しい蘭丸は在城することはありませんでした。代わりに、兄長可の家老各務元正(かかみもとまさ)が城代を務めています。この時与えられた城は金山城ではなく、美濃国岩村の五万石だったとの説もあります。

残念ながら、城主になって3ヶ月後に本能寺の変で命を落とし、城は長可が金山城と岩村城の城主を兼任。長可が長久手の戦いで戦死した後、出家していた忠政が後を継ぎました。

5.誰が蘭丸を死へ追いやった?

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天正10年(1582)6月2日に、明智光秀は信長に刃を向けました。日本の歴史が変わった大事件、「本能寺の変」です。蘭丸は光秀が信長に謀反を起こすのではと感じ、信長に進言していましたが、重要視しなかったとか。

5-1光秀の謀反を感じていた

蘭丸は本能寺の変が起こる前日の6月1日に、風呂屋に行きました。そこで、耳にしたことに驚愕します。風呂の外を誰かが歩きながら、“明智が謀反を起こす。と、妙な話をしていたのです。風呂の中で聞いたため、話をしていたものを見つけることができませんでした。

しかし、ただ事ではないと感じた蘭丸は、お伴の侍に「今話をしていたものを探し真相を調べよ。」と命令し、急いで本能寺へ戻り信長に風呂屋での一件を伝えます。しかし、信長は「そんな根も葉もないことをいうものではない」と嗜めたようです。蘭丸の必死の進言も、信長には伝わりませんでした。この一件は蘭丸の死後に、生き証人が見つかっており、全くの空言とはいえないようです

5-2本能寺の変の予兆

武田征伐の後、光秀は我が城坂本城に戻り一休みしていた時のこと。「駿河の国」のお礼に長逗留する、家康の接待役を命じられます。手厚くもてなすも、信長が激怒し急に打ち切られたのです。信長から接待の褒美も貰えないまま、「サル(秀吉)が、備中で援軍を欲している。すぐに行け!」と命令されました。

それは5月17日のことで、戦支度に帰る前に光秀は蘭丸に、信長の勘気を解いて欲しいと頼んだのです。精神的に追い詰められており、光秀が謀反を起こしかねないと感じ、信長に生真面目な光秀に厳しくせず、暖かい言葉をかけてほしいと進言したとか。

信長の本意は、光秀の心理状態に気付いており、「戦略上手だから毛利を落とせないサルを助けることができるはず」とあえて出陣させていたのです。さまざまなところで、思い違いが重なり、大事件が現実になります。

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