安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

織田信長の前に立ちはだかった「顕如」石山本願寺のトップをわかりやすく解説

天下統一まであと一歩のところまで行った織田信長の強さは、当時はずば抜けていました。しかし、そんな無敵の信長を手こずらせた勢力がいたことをご存知でしょうか。それが、今回ご紹介する顕如(けんにょ)率いる石山本願寺です。僧でありながら戦国武将をも上回る力を持ち、信長を10年も苦しめた顕如とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。

浄土真宗本願寺派の宗主として

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顕如は、浄土真宗本願寺派のトップとなる「宗主」の血筋に生まれ、幼くして宗主の座に就きました。周囲のサポートもあり成長した彼は、やがて石山本願寺を拠点に、戦国武将をもしのぐ力を持った教団を率いていくこととなります。

12歳で本願寺派の11世宗主となる

天文12(1543)年、顕如は浄土真宗本願寺派10世宗主・証如(しょうにょ)の息子として誕生しました。

浄土真宗は、鎌倉時代に親鸞(しんらん)によって開宗された仏教宗派。元々は本願寺を本山としたものでしたが、顕如の後の時代に内部分裂し、本願寺派大谷派に分かれることとなります。

顕如が12歳の時、父・証如が亡くなってしまったため、まだ少年ではありましたが、顕如は剃髪し、僧籍に入ることとなりました。

公家の娘と結婚し、結び付きを強める

弘治3(1557)年、顕如は15歳で結婚します。妻となった妙春尼(みょうしゅんに)は、公家である三条公頼(さんじょうきんより)の娘でした。また、顕如は同じく公家の九条家の猶子(ゆうし/相続関係のない義理の親子関係)となり、僧でありながら公家との結び付きを強めたのです。これが、顕如と本願寺が力を強める第一段階となりました。

ちなみに、妙春尼とは政略結婚ではありましたが、とても仲が良く、おしどり夫婦と呼べる関係だったそうですよ。

当時の石山本願寺と一向一揆

父・証如が本山として築いた石山本願寺は、その後本願寺教団の拠点となりました。経済や軍事の要となり、堀や土塁が築かれた建物は、まるで城のようだったと言われています。

顕如の時代に全盛期を迎えた石山本願寺のすごさは、イエズス会の宣教師にも「日本の富の大部分は、この坊主(顕如のこと)のものだ」と言わしめたことからもわかりますよ。

ところで、この頃、全国各地で本願寺の信徒たちが権力層に対する一揆を起こしていました。これが「一向一揆(いっこういっき)」と呼ばれるものです。地域密着型のこの一揆は、時に戦国武将を滅ぼすほどの勢いを持っていました。

その一向一揆が各地で続発したことで、顕如はやがて時の最大権力者・織田信長との対立へと突入していくことになるのです。

織田信長との対立から戦に至るまで

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当初は織田信長と敵対するつもりはなかった顕如ですが、やがて対立関係へと転じます。そこから、彼は10年にも及ぶ激烈な闘争を信長と繰り広げることになるのです。そのきっかけは、信長が吹っかけてきた度重なる無理難題でした。

元々は信長と戦うつもりはなかった

顕如率いる本願寺が力をつけていたころ、同様に破竹の快進撃を続けていたのが、織田信長でした。彼は次々と有力武将を破り、ついに室町幕府将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たし、天下人への階段を着実に上っていたところだったのです。

そんな信長に対し、当初、顕如は盾突こうというつもりはありませんでした。元々、本願寺中興の祖と呼ばれる8代宗主・蓮如(れんにょ)の方針が「王法を本(もと)と為す/王に従い、信仰は心のうちに」というものだったため、顕如もそれを踏襲しており、信長に軍資金の供出などを求められてもちゃんと応じていたのでした。

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