安土桃山時代日本の歴史

中世から近世への過渡期を担った「豊臣政権」とは?その仕組みを探る

江戸時代後期に流行った落首(世相を風刺して匿名で作った狂歌)で、「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座して喰らふは徳の川」というものがあります。意味としては「織田信長が戦乱の世をまとめ、羽柴(豊臣)秀吉がその後を継いで天下の政事を整備し、最後に徳川家康が天下泰平を築いた」という意味になるのですが、織田~豊臣へ繋がる政権の流れを時間軸で見てみると、わずか30年の短い期間にしか過ぎません。しかしながら、この短い間に日本の社会構造は劇的に変化を遂げ、中世から近世へと脱皮し、後の徳川幕府へと繋がっていくのです。いったいこの間に何があったのか?豊臣政権における20年間に主眼を置いて探っていきたいと思います。

豊臣政権の動きを時系列で見ていこう

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まず、秀吉がどのように政権を掌握し天下人となるに至ったのか?また政権を確固たるものとするために、どのような動きをしていたのか?時系列を追って解説していきましょう。

織田信長の後継者として名乗りをあげた秀吉

天下統一を目前にして、本能寺で織田信長が斃れたとき、その後継者たらんとして名乗りを挙げたのが羽柴秀吉でした。逆臣の明智光秀を真っ先に討って発言権を強めた秀吉は、続く織田家重臣の話し合いの場である清州会議でも主導権を握り、織田家正嫡である三法師を戴いて天下取りへの第一歩を踏み出します。

秀吉の行いに不満を抱く織田家重臣たちとの戦いはやはり不可避で、賤ヶ岳の合戦で重臣筆頭の柴田勝家を破り、富山の役では佐々成政を下し、小牧の役でも徳川家康と対峙するのですが、結果的に家康を取り込んで政権の中に組み込んだのでした。

信長の血統を受け継ぐ息子たちもしかり。滅ぼしたり懐柔したりして影響力を奪い、いつしか織田政権をそっくりそのまま継承する形となったのでした。秀吉が信長の偉業を受け継ごうと考えた時、政権の本拠地でありシンボルともいえる目に見える形が必要となりました。それが1583年に築造された大坂城だったのです。

敵対勢力を平らげて地歩を固める豊臣政権

秀吉が政権初期に行った対外政策は、敵対するものは容赦なく攻め、そうでないものは懐柔するというやり方でした。織田政権の時代に敵対していた毛利氏上杉氏などは巧みに懐柔し臣従させ、敵対するものに対しては、1585年の四国征伐を皮切りに武力をもって屈服させていきました。

朝廷の権威と結びついたのもちょうどこの頃で、1587年の九州征伐のあたりから「天皇・朝廷の代弁者」という自負をもって天下に威令を響かせ、大軍を動かすようになるのです。羽柴から豊臣へと改姓し、関白となった秀吉は【惣無事令】を発して大名同士の私闘を禁じ、もし破るものがあれば、それは「天皇に弓を引くもの」と断じて統制を取ろうと考えます。小田原北条氏を滅ぼしたのも惣無事令違反だという名目でした。

下賤の出身である秀吉は、天皇や朝廷の権威を笠に着ることで自らを神格化しようとしていました。

暗愚な朝鮮出兵と、豊臣政権に迫る暗雲

九州征伐の前後あたりから、実は秀吉の中国大陸外征計画は具体化してきています。「日本を統一した暁には大明国を平らげる」という発想は、彼の誇大妄想どころか現実的な計画として練られていたのでした。

1592年、明国を征伐する足掛かりとして、まずは朝鮮半島に渡り、順調に作戦は進みますが、時間の経過とともに日本側には不利な要素が山積してきました。朝鮮民衆の根強い抵抗があったこと、明国の大規模な援軍があったこと、輸送路を朝鮮側に脅かされ補給がままならなかったこと。などが挙げられますが、外地における完全なアウェイ状態だったということが最大の理由でしょう。(文禄の役)

いったん和睦するものの交渉は決裂。再度大軍が朝鮮半島へ送られますが、この時点ですでに朝鮮を平らげるどころの話ではなく、拠点同士でなんとか連絡を取り合い、ようやく点と線を確保することができるという有様でした。結局は戦略的には何の戦果もないまま終始し、秀吉の死によって撤兵することになりましたが、豊臣政権にとって大きな禍根を残すことになったのです。(慶長の役)

この後、関ヶ原合戦の結果によってわずか65万石の大名の地位に転落した豊臣政権。徳川氏が政権を打ち立てるに至って、ついにその命脈を保つことはできなかったのです。

朝廷と豊臣政権との関わり合い

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先ほど、秀吉は朝廷の権威を最大限に利用したと解説しましたが、具体的にはどのようなものだったのか?ちょっと掘り下げてみましょう。そこには中世から脱却しつつも、古い権威を大事にしようとする考えが透けて見えてくるのです。

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