平安時代日本の歴史

瀬戸内海を支配した海の武士団「村上海賊」とは?歴史系ライターが解説

「海賊」といえば読者の皆さんはどんなイメージを抱くでしょうか。バイキングのように軍船を連ねて略奪行為を行う集団?それともパイレーツ・オブ・カリビアンに登場するジャック・スパロウのような孤高で自由を愛する存在?やはり「海賊」と聞いただけでは想像がつかないでしょう。今回解説させて頂く村上海賊は、そもそも活躍した舞台が日本ですから「世界の海を股に掛ける」というわけではありません。それでも瀬戸内海という広い領域を実質支配し、歴史に深く名を刻んだ海賊たちだったのです。

そもそも村上海賊とはどんな集団だった?

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2014年に本屋大賞を受賞した和田竜の小説「村上海賊の娘」は、これまで陽が当たることが少なかった村上海賊について、大いに想像力を掻き立てられるものでした。「早く映画化してほしいな」という筆者の願望はさておき、この本の流行をきっかけに村上ファンが多くなったのも確かでしょう。その歴史を解説する前に、まず村上海賊とはどのような集団だったのか?説明してみたいと思います。

海の水先案内人となった村上海賊

日本は海に囲まれた島国ですから、古くから海上交通や海上輸送路は発達していました。特に瀬戸内海は畿内から中国・四国・九州方面へと繋がっているため、陸上を行き来するよりも圧倒的に速く目的地へ着くことができるのです。現在でも関西から九州へ向かうフェリーの多くが瀬戸内海の狭い海峡を通り、最速で人や自動車、荷物などを運んでいますよね。

日本で海賊が誕生したのは平安時代だとされており、この頃の海賊たちは都へ運ぶ官物を無理やり略奪する、いかにも「海賊らしい海賊」でした。朝廷はたびたび海賊鎮圧の命令を発するなど対応に追われていたといいます。

やがて各地で武士団が起こり、海の民である彼らの中にも武士階層らしい序列が出来上がっていくようになりました。中世になると芸予諸島にはびこる海賊たちの乱暴な行為は鳴りを潜め、帆別銭や駄別料といった通行料を徴収することで航路の水先案内をしたり、島々の間を通行する便宜を図るなど「海の警固番」としての役割を果たすようになりました。

しかし通行料を渋ったり、無理やり通行しようとすると、焼討ちされたり襲撃されたりしたそうですね。現在はしまなみ海道がめぐる穏やかな海ですが、当時は荒っぽい海の男たちが跳梁する場所だったのです。

独自の事業によって莫大な財を成す

村上海賊は陸地という領地をほとんど持っていなかったために、いわゆる年貢などの収入はありませんでした。しかも通行料だけでは到底予算を賄うことができません。では村上海賊の財力を支えたものは何だったのでしょうか。

それは瀬戸内海という海の道を利用した独占事業だったのです。彼らは立ち位置を生かして海運業に乗り出し、重要な航路の主役を担いました。現在でもそのDNAは息づいていて今治を中心とした「愛媛船主」という存在が有名ですね。愛媛県を本拠にして船舶を保有し、その船舶を運航業者に貸渡すという事業の総称です。愛媛オーナーとも呼ばれますが、その運航総トン数は国内シェアの3割にも達するそうですね。

また海外と密接に交易していたという記録もあり、村上氏の海城「能島城跡」からはギヤマンや中国製陶磁器なども発見されています。

海賊と名は付くものの実質はれっきとした武士団。各地の戦場へ傭兵として出陣していったことも経済基盤を支えた事業の一つです。伊予国(現在の愛媛県)の河野氏を主家として仰いではいましたが、あまり強い繋がりはありませんでした。それゆえに主家に気兼ねなく各地へ兵を送りこめたことも傭兵事業が成功した要因だったことでしょう。

村上海賊前史~戦国時代まで~

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全国に「水軍」と名の付く集団はたくさんありましたが、村上海賊(村上水軍)ほど強大で独自性に富んだ武装集団はありませんでした。いよいよ村上海賊の歴史を解き明かしていきましょう。まず歴史は平安時代にまでさかのぼります。

「藤原純友の乱」によって瀬戸内海に土着した村上氏

前述した通り、平安時代の海賊はまさに略奪を繰り返す悪党集団で、たびたび海賊追捕の命令が朝廷から下されるほどでした。瀬戸内海に跋扈する海賊たちを追捕するため伊予掾(伊予国の治安を守る役目)となった藤原純友は、なぜか役目を終えても帰京せず、そのまま土着して海賊の頭領にまでのし上がっていきました。

そして940年には朝廷に対して反乱を起こし、藤原純友の乱という2年にわたる戦いを繰り広げるのです。追討軍の中に越智好方という者がおり、また越智一族に連なる村上某も従軍していたそう。そしてこの時の戦いで大活躍。数百隻の軍船を率いて九州方面まで純友を追い詰め、ついに討ち取ったと伝えられていますね。この越智好方の子孫がのちに伊予国主となる河野氏となるのです。

海賊を取り締まるはずの者があろうことか海賊に鞍替えし、さらにそれを討ち取ったのが、のちに大海賊となる村上氏だったとは皮肉としか言いようがありませんね。

いずれにしてもこの乱によって越智一族は栄達し、村上氏も大きな第一歩を歴史の1ページに記すことになりました。

村上氏と信濃との繋がり

平安時代後期に起こった前九年の役の結果、戦功を挙げた源頼義は伊予守に任じられて伊予へ下向しました。その際に河野親経と甥の村上仲宗に寺社造営の命を下したと言い伝えが残っていますね。

そして仲宗の子、顕清の時に兄に連座して罪を得て信濃国へ流されたといいます。その後、保元の乱では崇徳上皇側について破れるものの罪には問われず、実子の定国は瀬戸内海の淡路島や塩飽諸島で海賊の頭領として復帰して父祖伝来の地に戻り、養子の為国はそのまま信濃に居残って信濃源氏の祖となりました。

ちなみに為国系の信濃村上氏の子孫に、武田信玄を二度までも破った村上義清がいます。こうして村上海賊と信濃源氏村上氏の二つの大きな系統が出来上がったのです。

室町時代前期の1374年、7代目当主の村上義弘が没すると、信濃源氏村上氏から師清を迎え当主に据えました。その後師清の子である義顕の代に3人の男子をそれぞれを3つの島へ遣わしました。長男雅房を能島(のしま)に。次男吉豊を因島(いんのしま)に。そして三男吉房を来島(くるしま)に。といった形ですね。

これが同族意識の高い村上海賊を構成する村上三家となりました。やがて時代は戦乱打ち続く戦国の世へと移行していくのです。

独立しつつも連携を保つ村上三家

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元は同じ村上一族でありながら、3つに分かれた村上海賊。海で隔絶された特殊な環境から、それぞれが独立した動きをしつつも肝心な時には結束を図るという不思議な関係性を保つことになりました。そんな彼らの動きを追っていきましょう。

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明石則実