安土桃山時代日本の歴史

5分でわかる「森蘭丸(成利)」信長の小姓は本当に美少年?わかりやすく解説

ちょっと雑学

森兄弟は父譲りの戦い上手で、織田信長やその後継者の信忠の大のお気に入りでした。因みに6人の兄弟で、生き残ったのは忠政だけです。長男可隆は「姉川の戦い」で、三男蘭丸と四男坊丸、五男力丸の3人は、「本能寺の変」で戦死しています。

鬼の武蔵と呼ばれた次男長可は「本能寺の変」の後「小牧・長久手の戦い」で秀吉に着くも戦死。森家の当主で次男の長可は、自分が死んだ後は森家唯一の生き残り仙丸(忠政)に、秀吉に仕えても金山城を継ぐなと遺言を残しています。

これは幼い仙丸では、美濃の戦いで要となる金山城を守り、戦乱の世を生き抜くことはできないだろうとの思いからでした。唯一残った男子だから、息の長い武士として平穏無事な人生を送り、森家安泰となるよう願ったようです。でも、仙丸に武士としての器量があると見抜いた秀吉は、金山城主にしました。

貴船神社の復興など城主として立派に勤め、関ヶ原では徳川に着き美作国18万6500石を与えられ、国主として活躍し不動の地位を築いています。

3-2蘭丸士官する

天正5(1577)年4月に満12歳で蘭丸は仕官しました。既に信長は、岐阜城を嫡子信忠に譲り隠居生活を送っています。仕官するころの信長は、右大臣に任命されており、世間も比較的緩やかな時期でした。

父可成は、信長が11歳のころから支え尾張統一を経て天下布武(意味:天下を武力で平定する)へと躍進する存在に押し上げた立役者でした。武士としての力量はもちろん、厚い信頼をおく、信長にとって極めて大切な存在だったのです。可成が戦死したとき、信長は深く悲しんだといわれています。

仕官した蘭丸は、信長の小姓となるのです。信長の右腕ともいえる、可成の息子とあれば可愛くないはずはありません。一節によると、蘭丸の故郷美濃金山は、信長に経済力をもたらせていたとか。そこで育った蘭丸は、実用主義的な人物で、織田政権は経済官僚として期待を寄せていたようです。

4.蘭丸は信長のお気に入りって本当?

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見ているだけでもウットリする美しい容貌の小姓として、信長の側に座っていただけが、蘭丸の本当の姿ではありません。15歳で信長の小姓となり、信長はどんなことでも蘭丸を通して申つけるほどの信頼を得ています。他の小姓たちが嫉妬するほどの、可愛がりようだったようです。

4-1重臣たちからも一目置かれる蘭丸

蘭丸の凄いところは、皆が恐れる気性のあらい信長に、遠慮なくどんなことでも伝えられる存在だったこと。これには大名たちも一目置き、蘭丸を重要視していました。読み書き算術はもちろん、細かなことまで気を配れる頭脳明晰の蘭丸の仕事は、信長の身の周りはもちろん、事務仕事まで完璧に熟していました。

小姓たるもの武術はもちろん、舞など芸術的な嗜みも必要だったといわれています。ずば抜けて優秀だったため、「小姓といえば蘭丸」といわれていたとか。でも、周りの小姓たちからの嫉妬は相当なものだったようです。

二人の弟も信長に仕えたため、家臣や大名たちに対する影響力も相当だったとか。しかも兄で森家当主の長可は、武田攻めで先鋒として活躍し、高遠の城を陥落させるなど、猛勇を奮う活躍をしています。

ちょっと雑学

小姓の仕事を簡単にいえば、主人の身の回りの世話係。当時は、妻など女性に世話をさせず、小姓たち少年が担っています。面会人などの調整、家臣への伝言、経理までこなす秘書官も役割です。24時間休みなく働く助手兼お手伝いさんといったところでしょうか?夜伽も役目のひとつだったとか。

戦争が起これば甲冑を着て出陣し、主人のためなら死ぬ覚悟で盾にもなります。こんなハードな仕事ですが、実は出世コースに一番近い存在でした。献身的に働く姿を、直に主君に見てもらえるのです。認められれば、領地を分け与えられるケースも少なくないとか。なので、小姓たちは皆ライバル関係にありました。

主君の側にいて武将としての仕事を身に付け、有能な家臣へと成長する金の玉子だったのです。実は、加賀百万石の前田利家も、信長のお気に入りの小姓でした。

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