教養歴史

石山本願寺って何?信長を苦しめた石山戦争と合わせてわかりやすく解説

戦国の覇王である織田信長。そんな信長ですが10年以上宗教に苦しめられていたという事はご存知でしょうか? かつて今の大阪城があるエリアは浄土真宗の総本山がおかれ、10年以上続く石山戦争の舞台となっていくのです。 今回はそんな石山本願寺と石山戦争について解説していきたいと思います。

石山本願寺の始まり

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石山本願寺が建設されたのは大体1496年ごろと言われています。この頃浄土真宗の総本山は山科本願寺と呼ばれる場所にありましたが、山科は周りに山が囲まれており、あまり布教には向いていないところでした。

そんな最中、浄土真宗のトップの座を譲った第8代座主である蓮如が現在の大坂付近に度々足を運び、この大坂の中心地に浄土真宗の新しい御堂を建てようとする動きが見られるようになったのです。

大坂という地域は港湾都市、国内流通の中心であった住吉津や難波津が位置していることもあってかかなり物流の拠点となっており、さらには堺や紀伊と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でもあったため人の流れもかなり良いものでした。蓮如は引退した後の人生をこの大坂の御堂で布教活動を行おうとしていたのです。

山科本願寺の戦い

こうして浄土真宗の一拠点として歩みはじめた石山本願寺。しかし、この石山本願寺はとある戦乱をきっかけに浄土真宗の総本山となっていくことになります。

当時日本は戦国時代真っ只中。宗教関連の勢力もこれに乗じて勢力を伸ばそうとしはじめていくことなりました。そんな中蓮如の後継者実如は、明応の政変で混乱している幕府側から参戦要請を受け本願寺はこれを承諾。

これ以降、本願寺は潤沢な資金を基にして武装化していき、戦国大名と争いを繰り広げることになります。

浄土真宗の門徒は基本的に争いが起こったら宗教のために戦うのが普通のことであり、さらには浄土真宗を信仰していれば阿弥陀如来に極楽浄土に連れてもらえるという教えでした。

そのため、戦いに参加した浄土真宗の門徒はとんでもないほど多く、明応の政変の時に集まった門徒は10万人まで集まったと言われています。

しかし、これを危惧したのが当時の幕府の実質的な指導者であった細川晴元。もしもこのまま浄土真宗の力を伸ばして仕舞えば幕府勢力にもその力を及ぼしかねません。そこで細川晴元は同じくこの頃浄土真宗と敵対していた法華一揆衆や近江の戦国大名であった六角定頼に命じて3万から4万の兵で山科本願寺を包囲します。この戦争によって山科本願寺は焼け落ち、寺内町もろとも焼失してしまいました。

この山科本願寺の戦いで総本山を失ってしまった本願寺の勢力は新しい総本山の場所を模索し始めることに。そんな時に白羽の矢が立ったのが石山本願寺だったのです。

石山本願寺の最盛期

山科本願寺が焼失した後、総本山の地を決めることになりましたが、本願寺はその後石山に本拠地を移すことになります。この当時浄土真宗は加賀を実効支配するほどのに大きな勢力を持っていましたが、この加賀は北陸にあることもあって冬になると雪に閉ざされてしまい信者の往来には不便でした。そのため季節通じて京都にいけてさらには京都に近い石山本願寺に移り変わることになったのです。石山本願寺に移転してから4年後の1535年に和睦。細川晴元との争いの中で浄土真宗の門徒が実効支配していた加賀国を含めて大量の寺社領を手に入れ、山科本願寺みたいに燃えないように証如の時代には石山本願寺は要塞堅固の城郭都市に変貌を遂げたのでした。

また証如の時代には敵対する勢力を増やさないように戦国大名への外交も展開。

甲斐国の武田氏、相模の後北条氏、さらには敵ともなっていた六角定頼の息子六角義賢と関係を結んだことによって石山本願寺の基盤は安定を迎え、石山本願寺の絶頂期が訪れることになりました。

石山戦争の始まり

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こうして安定した権力を手に入れた石山本願寺。しかしその前に立ちはだかったのが尾張から急速に勢力を伸ばしていた織田信長でした。信長は1568年の上洛以降、次々と畿内勢力を排除。さらには石山本願寺に対して軍資金5千貫(現在の価値にして2億円ほど)を要求していくことになります。

さらには、信長は石山本願寺サイドに対して石山本願寺の明け渡しを命令。これは信長が石山本願寺の立地などをみてここにあたらしい本拠地を築いて西国攻略の拠点にしたかったとする思惑があったとされますが、石山本願寺からしたらそんなこと受け入れられるものではありませんでした。

これを受けて当時の浄土真宗のトップであった顕如は全国の浄土真宗の寺院に対して信長に対して戦いを挑めと言い、全国の門徒には石山本願寺防衛のため武器を携え大坂に集結するように指示を出しました。この当時信長は三好三人衆と戦っており、今の野田福島あたりに陣をはっていましたが、これを受けて信長は淀川に撤退。最終的には朝廷の勅令によって講和を結んだことによって終結しました。しかし各地の浄土真宗の門徒は信長に対して蜂起を起こすことになり10年にも渡る石山戦争が幕を開けたのでした。

苦境に立つ信長

石山本願寺にて挙兵した顕如はまず信長の本拠地の岐阜に近い長島願証寺で一向一揆が発生。いわゆる長島一向一揆が起こり信長は3万の兵で対抗しますが失敗。一向一揆の勢いはすさまじく信長の弟信興を自害に追い込むなど公然と信長に敵対するようになりました。

さらにはこの頃信長は朝倉・浅井と敵対関係にありその勢力たちの対処で精一杯でした。また武田信玄が上洛するために挙兵すると信長は絶体絶命のピンチに追い込まれることになります。

しかし、1573年に武田信玄が死去すると形勢は逆転。同年に室町幕府を実質的に滅ぼし、さらには朝倉・浅井を次々と滅亡に追い込むなど敵対勢力を潰していくことになります。

こうして手をすき始めた信長は一番大切な一向一揆の殲滅に乗り出すように。1574年には信長の目の上のたんこぶであった長島一向一揆を殲滅してさらには越前一向一揆も殲滅。また、石山本願寺以外の浄土真宗の本拠地をことごとく撃破したことによって石山本願寺は一気に苦境に追い込まれることになりました。

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