一般市民が兵隊に?「徴兵令」とはどういうもの?その歴史と意義を探ってみた
古代律令国家としての徴兵令とは?
日本が国家として初めて徴兵令を出したのは、律令制が敷かれた飛鳥時代後期のことでした。対外的にも危機を迎えていたこの時期、とにかく兵を集めて国を守ることが求められたのです。しかし一般民衆にとっては負担も大きかったこの事業は特に地方を疲弊させるものとなりました。
国家の黎明期から中央集権体制へ
唐に倣った律令制が日本に導入される以前、日本の国家としての軍事組織は【国造(くにのみやつこ)】による組織に頼るほかはありませんでした。国造とは、初の中央政権となった大和朝廷が地方へ支配権を拡大していくに従い、中央から派遣したり、地元の豪族を任じたりした地方行政官のことです。
国造は軍事も司っていましたから、独自の私兵ともいえる軍団を持っていたのですね。ところが国内の反乱や武力蜂起の鎮圧には適当かも知れませんが、いざ海外から侵略を受けたり、海外へ出兵する際には柔軟でフレキシブルな対応などできません。
そこで大化の改新を契機に【大化の軍制改革】が行われ、大和朝廷が一元管理し自在にコントロールできる軍事組織を構築しようという動きが出てきました。大和朝廷が中央集権政権へと発展するに従い、その軍事力も変容を余儀なくされてきたといえるでしょう。
こちらの記事もおすすめ
「大化の改新」で目指した中央集権国家~乙巳の変から改革内容まで~ – Rinto~凛と~
「白村江の戦い」を契機に軍団制が本格化する
ところが海外のキナ臭い動向は一足早く日本へ危機をもたらそうとしていたのです。660年に朝鮮半島の百済が唐・新羅連合軍によって滅ぼされると、百済の旧臣たちの救援要請を受けた大和朝廷は派兵を決定します。ところが【白村江の戦い】と呼ばれる一連の戦いで日本軍は大惨敗。ほとんど全滅に近い敗北を喫してしまいました。
これは斉明天皇や中大兄皇子らが、前線基地でもある九州の筑紫(現在の福岡県)へ向かう際に、道すがら徴兵を繰り返し、地元豪族なども糾合して出来上がった混成軍であり、訓練も意志の統一もバラバラ。そんな状態で序列も訓練も行き届いた唐の正規軍に当たっていったわけですから、敗北するのは当たり前の話です。
日本古代史の研究者である国際日本文化研究センターの倉本教授によれば、中大兄皇子は最初から大敗北を悟っていながらあえて戦いを挑み、唐・新羅が日本へ攻めてくる危機感を煽った上で天皇中心の体制を強化しようとしたともいわれていますね。
白村江の大敗北を利用した権力闘争が専制国家「日本」の起源!? デタラメな軍事戦略は今も健在!?
その上で兵部省が設置され、日本における軍制の大改革が始まりました。それが【軍団制】と呼ばれる軍事組織だったのです。
こちらの記事もおすすめ
史上初めての国外戦争_白村江の戦いとは – Rinto~凛と~
民衆に大きな負担を強いた【軍団制】
庚午年籍といった国民の戸籍データ化が中央によって掌握されると、それが徴兵令の基本となりました。正丁(成年男子)の3人に1人が徴兵される規定になっており、一つの国に1千人程度の軍団を組織していたそうです。また軍事教練を受けることが義務付けられていました。
現地勤務が通例となっていましたが、それでも多くの兵士たちが宮中の警備を担う【衛士】となったり、九州防衛を担う【防人】となるなど遠隔地への赴任を余儀なくされていたそうです。当時は水城(福岡県太宰府市など)や金田城(長崎県対馬市)、鬼ノ城(岡山県総社市)などの古代山城が築造され、唐・新羅の逆襲に備えていました。
よく防人の任に当たった兵士たちは、武器も食糧も自前で準備しなければならなかったという説がありますが、それは間違いで、確かに一部の武器や防具に関しては「自備」するよう規定はありましたが、一方で公定された統一規格に基づいて生産されていました。そして勤務の際や戦時の動員に当たっては軍団兵庫から支給された装備を身に付けるのです。
だからといって勤務中の給与が配給されることはなく、農民は大事な働き手を取られてしまい、貧困にあえぐ家が相次ぎました。ちなみに奈良時代の人口は約600万人といわれ、半分が男性だったとして300万人、そのうち17~65歳の青壮年男子が200万人いたとしましょう。青壮年男子の3人に1人は兵隊に取られたわけですから、約50~70万人程度の軍団の規模になるでしょうか。
こうして見ると国防を重視するあまりに、国の根幹を為す労働力を犠牲にしていることがわかりますね。こうして働き手のいない田畑は次々に放棄され、租税を納められない農民たちは多くが逃げ出しました。律令制にとって基本である戸籍や土地が意味を為さなくなると、律令制そのものも徐々に崩壊していくのです。
防人や衛士として遠い任地へ赴く悲哀の歌が「万葉集」にはたくさん残っていますね。
「韓衣裾に取りつき泣く子らを、置きてそ来ぬや母なしにして」
衣や裾に泣いて取り付いてくる子らを置いてきたのだ。母親もいないのに。
「父母が頭かき撫で幸くあれて、いひし言葉ぜ忘れかねつる」
防人の任に赴く私に、父母が頭を撫でながら「無事でいるんだよ」と言った言葉が忘れられない。
そして8世紀後半に朝廷が外交政策を転換するに及んで軍団制も規模を縮小していきました。
日常的に民衆が戦いに駆り出された時代
天皇や貴族に代わって武士が権力を握った時代を一般的に「中世」と呼びますが、武士や農民などの階級差が曖昧だった時代でもありました。特に戦国時代はそれが顕著で、武士でない者も戦いに駆り出されました。農民たちですら貴重な戦力となっていたのです。
合戦の戦力はほとんどが農民兵だった戦国時代
日本全国が合戦で明け暮れていた戦国時代、敵より少しでも戦力を持っていた方が有利になります。そこで農民兵たちが大量に動員されました。ちなみにこの時代の民衆は搾取されるだけの弱い存在ではありません。一向一揆や法華一揆に代表されるように、大名ですら圧倒するほどの武力を持っていましたから、そのパワーは恐るべきものです。
惣村という村単位で団結し、境界争いや水争いとなれば武力衝突などお手のもの。そんな彼らに戦国大名が着目しないわけがありません。また農民たちを束ねる土豪層や有力農民たちは戦国大名からの直接支配を受け、一たび合戦の陣触れ(いわゆる徴兵令)があると、それに応じて領国の村々から続々と農民兵が参集してくるのです。
彼らは戦いに勝っても褒美はありません。その代わり許されたのは【乱妨取り】という略奪行為でした。女子供をさらい、稲を刈り取り、家財道具を奪い取る。そんな残酷な行為が平気で行われていた時代だったのですね。義に厚いといわれた上杉謙信ですら晩秋に関東などへ出兵しては乱妨取りを奨励し、翌年春まで兵たちの食糧を賄っていたそうです。また略奪品の売買行為も日常的に行われ、商人が集まって市が立つほどだったとのこと。
こちらの記事もおすすめ