安土桃山時代日本の歴史

5分でわかる「森蘭丸(成利)」信長の小姓は本当に美少年?わかりやすく解説

5-3明智光秀さま、謀反にございます!

5月27日に光秀が愛宕山に参拝し引いたおみくじには、「万事吉。願い事は叶う!」と、書かれていました。光秀は、6月1日に亀山城から1万3千の兵を率い出発したのです。天正10(1582)年6月2日午前2時に桂川に着いた時のこと。いきなり全軍に「敵は、本能寺にあり!」と号令をかけました。本能寺を囲んだのは、午前4時のことでした。

本能寺にいたのは、信長や蘭丸たちの他には若い兵と奉仕の茶坊主と女の約80人だけ。この中には、蘭丸の弟長隆(坊丸)と長氏(力丸)の二人もいました。信長の寝床にも、騒がしい声が聞こえたのです。はじめは兵たちの喧嘩だろうと思っていたのですが、鉄砲の音に飛び起きて蘭丸に「相手は誰じゃ」と叫びました。蘭丸はすぐに「明智光秀さま、謀反にございます!」と返しています。信長は、「是非もなし(仕方がない)」といい、弓と刀を手に取り応戦しました。

5-4光秀の謀反に寄り絶命する蘭丸

光秀は1万3千の兵で攻め込みます。でも、本能寺にはたった80名ほど。多勢に無勢。勝てるわけがありません。弓を使い果たし、刀が折れ信長は、「火を放て。決してわしの亡骸を人に見せるでないぞ。」といい、部屋に入り障子を締めました。この時信長は、49歳でした。嫡男の信忠は、二条城で戦い戦死します。

本能寺の僧侶のひとりが、信長の体を人目に触れないように「私が焼いて土深くに隠しましょう。あなた様方はご存分にお働きください。」と、蘭丸たちに申し出ました。「よろしく頼む。」といい残し、本懐を遂げたとか。あくまでも、エピソードで、信長も蘭丸たち森三兄弟も本当に、本能寺で果てたのか詳しくは分かっていません。

蘭丸を討ったのは、明智三羽烏の一人「安田作兵衛(やすださくべい)」だといわれています。森三兄弟のお墓は京都市寺町周辺の「阿弥陀寺(あみだじ)」にありますが、世間にはあまり知られていません。

5-4絶命する蘭丸

The end of Mori Ranmaru.jpg
By Toshihide Migita – “Toyotomi Kunkōki” 『豊臣勲功記』 「本能寺ニ森蘭丸討死之図」 (http://morimiya.net/online/ukiyoe-big-files/U790.html), Public Domain, Link

光秀は1万3千の兵で攻め込みます。でも、本能寺にはたった80名ほど。多勢に無勢。勝てるわけがありません。弓を使い果たし、刀が折れ信長は、「火を放て。決してわしの亡骸を人に見せるでないぞ。」といい、部屋に入り障子を締めました。この時信長は、49歳でした。嫡男の信忠は、二条城で戦い戦死します。

本能寺の僧侶のひとりが、信長の体を人目に触れないように「私が焼いて土深くに隠しましょう。あなた様方はご存分にお働きください。」と、蘭丸たちに申し出ました。「よろしく頼む。」といい残し、本懐を遂げたとか。あくまでも、エピソードで、信長も蘭丸たち森三兄弟も本当に、本能寺で果てたのか詳しくは分かっていません。

蘭丸を討ったのは、明智三羽烏の一人「安田作兵衛(やすださくべい)」だといわれています。森三兄弟のお墓は京都市寺町周辺の「阿弥陀寺(あみだじ)」にありますが、世間にはあまり知られていません。

5-5光秀の謀反を感づいていた

光秀が饗応役を失敗したころ、既に謀反の動きを蘭丸は感じていたようです。蘭丸に、信長の怒りを解くよう相談した話は先ほどご紹介しました。その時に、信長は光秀の頭をいたとか。

「御屋形様に取り立てていただいた、深い恩を感じています。謀反などは、微塵も考えたことはありません。それなのに頭を叩くとはあんまりのこと。」と、光秀が言ったのです。蘭丸は、「謀反という言葉がでるのは、光秀の心にそのことがあるから。」と信長に進言しました。

しかし、信長は意に介さず備前に出兵させたとの話も残っています。信長が蘭丸を信じ、手を打っていたらと悔やまれますね。本能寺直前には、京で信長がこれまでになかった役を貰えることになっていたとか。信長と蘭丸共通の願い、天下太平の世が信長の時代に叶っていたかもしれません。

森蘭丸の生涯は、人の人生の儚さを感じずにはいられません

image by PIXTA / 15192334

美と知を兼ね備えた森蘭丸は、信長の寵愛を受けて華々しい人生を送った武将です。しかし、19歳で散らしてしまった命は、信頼して尽くした織田信長の誤算が原因でした。何度も、死への切符を手放すチャンスがあったのに、ものにできなかった運命の悪戯に悔しさを感じるのは私だけでしょうか。

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