- サンフランシスコ講和条約を知っていますか?
- GHQとは何だったのかー日本は独立国ではなかった
- 東西冷戦によるGHQの姿勢の変化とサンフランシスコ講和条約の成立
- 東西冷戦によるGHQの方向性の転換
- 東西冷戦とは何だったのか
- 日本でもレッド・パージ(赤狩り)が行われた
- 朝鮮戦争の勃発は戦後日本に大きな変化をもたらした
- なぜサンフランシスコ講和条約の締結が必要になったのか
- 共産主義の拡散に対する防波堤としての日本の見直し
- 第二次世界大戦を終わらせたサンフランシスコ講和条約
- 条約に参加したのは西側諸国のみ
- サンフランシスコ講和条約後の日本
- 日本の独立と警察予備隊から保安隊に、さらに自衛隊に再編成
- A級戦犯の釈放がもたらしたもの
- A級戦犯の解放はよかったのか
- 共産諸国との講和条約は未だにできていない
- サンフランシスコ講和条約がもたらしたもの
- 再独立によって失ったものも大きい
- 日本を大きく変えたサンフランシスコ講和条約を忘れない
この記事の目次
サンフランシスコ講和条約を知っていますか?
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サンフランシスコ講和条約は、1951年9月にアメリカ合衆国のサンフランシスコの会議で調印され、翌1952年に発効した条約です。東西冷戦の中で、西側諸国を中心に出席した52ヵ国中49ヵ国が署名しています。(ソ連は出席しましたが、署名せず、インドネシアでは批准が行われませんでした。)これは、教科書などにも出ていますが、覚えている人は少ないのではないでしょうか。
当時の日本は、米国軍を中心としたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれ、独立国とみなされていない状況でした。このサンフランシスコ講和条約によって、初めて日本国として認められた条約だったのです。これによって、国際的には日本は独立国として独り立ちして、本当の意味での主権の回復が認められたと言えます。
GHQとは何だったのかー日本は独立国ではなかった
1945年、第二次世界大戦に敗れた日本は、戦争に勝った米国軍を中心としたGHQの占領下に置かれました。GHQは、連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied .)のことを言います。映画などにも出てくるマッカーサー元帥が司令長官として赴任していました。
1946年には、日本国憲法が発布され、総選挙により新しい日本政府も議会も成立していました。しかし、それらに対してGHQは、指導や介入ができる権限を持っており、独立国とは言えなかったのです。何を行うにもGHQの承認が必要な時代でした。NHKの朝の連続テレビ小説の「まんぷく」などでもよく描かれていた戦後の状況で、GHQには逆らえない時代だったのです。
司令官のマッカーサー氏は、日本国の体質を心配して、昭和天皇とも面会してその人柄を探った結果、戦犯からは外しています。
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東西冷戦によるGHQの姿勢の変化とサンフランシスコ講和条約の成立
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しかし、国際的な情勢から見ますと、第二次世界大戦後の世界は、アメリカと欧州を中心とした自由主義国と、ソビエト連邦(以下ソ連)を中心とした共産主義国とに分裂しました。両陣営の対立が目立つようになっていったのです。欧州では、ベルリンの壁が作られ、東ヨーロッパは共産主義陣営としてワルシャワ条約機構が成立し、NATO(北大西洋条約機構)と軍事的にも対立するようなっていました。アジアでも、朝鮮半島で日本から独立した北朝鮮と南朝鮮に分かれ、ベトナムでもフランス領であった北ベトナムと南ベトナムが対立する状況が生まれたのです。
さらにソ連は、中南米諸国に対して共産主義革命の波及を狙ったため、自由主義陣営では共産主義革命に対して警戒感やアレルギーが強くなります。アメリカなどではレッド・パージ(赤狩り)と呼ばれる共産主義者を排除する運動が盛んになり、GHQもアメリカ国内同様、1948年には日本国内でレッド・パージを始めたのです。
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東西冷戦によるGHQの方向性の転換
それまで、GHQは、日本が二度と戦争のできないように立ち直らせないという政策をとっていました。しかし、共産主義革命に対する不安が高まることによって、日本を立ち直らせて、ソ連や中国の共産主義陣営に対する防波堤にしようという方向に転換します。特に、1950年に朝鮮戦争が始まると、その考え方は強まり、ついに西側諸国だけで日本の独立を認めるサンフランシスコ講和条約を締結することになったのです。
東西冷戦とは何だったのか
東西冷戦は、1989年にマルタ会談で、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が会談して和解するまで、40年以上続いていたのです。ソ連は、レーニンの後継者となったスターリン体制初期には、世界革命論を唱えていた政敵トロツキーを国外追放し、暗殺までしていました。しかし、第二次世界大戦後には、あからさまに東ヨーロッパなどを共産主義陣営にしてしまい、さらに中南米などにも共産主義革命を指導し始めます。ソ連は、東ヨーロッパ諸国とワルシャワ条約機構やCOMECON(コメコン)を形成して独自の軍事・経済政治圏を形成したのです。
これに対して、アメリカやヨーロッパの西側諸国は、対抗するためにNATOを創設するとともに、それぞれの国内にいる共産主義者の排除に進みます。それが、レッド・パージでした。その影響は、日本におけるGHQにも如実に現れたのです。
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日本でもレッド・パージ(赤狩り)が行われた
1948年には日本社会党と近かった民主党の芦田政権が生まれますが、GHQはレッド・パージ政令を発布して、公務員のストライキ禁止や、共産党員の公職追放などを実施しました。その結果、革新政党出身だった芦田内閣は汚職事件を追及されたこともあり、総辞職に追い込まれたのです。
同時に、GHQは、保守政権を作って、日本を復活させる政策に転換しました。GHQは、当初、戦争を起こした日本が戦争ができないように、経済的にも政治的にも立ち直らせない方針を持っていました。そのために、労働組合の結成を奨励したり、共産主義者の多かった婦人運動を支持して女性参政権を認めるなどの政策を推進していたのです。しかし、冷戦の勃発によってそれらの政策も逆転し始めました。保守政権を誕生させて、共産主義者やそれに近い人たちを極力排除する政策に転換し、保守政権を応援するために、GHQも経済復興にも積極的に関わるようになったのです。