教養歴史

ベルリンの壁はどうして建てられた?ベルリンの壁の歴史と崩壊した理由を解説

平成最初の年である1989年。この年に冷戦の象徴のベルリンの壁が崩壊しました。この壁は資本主義陣営と社会主義陣営の最前線として、さらには二つに分けられたドイツの象徴でもあったのです。今回はそんなベルリンの壁について何故作られたのかとどうして崩れ去ったのかをわかりやすく解説していきたいと思います。

ベルリンの壁とは?軽くおさらい

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ベルリンの壁とは1961年から1989年までドイツ首都ベルリンに建設されていた東ドイツ国民が西ベルリンに通行できないようにするための壁のことです。ちなみに結構間違えやすいのですが、このベルリンの壁は東ドイツと西ドイツを分断しているものではなく、ベルリン市内の西ドイツの飛び地をぐるっと囲むように建てられていました。地図を見ればすぐわかるのですが、ベルリンって意外にドイツの東側にあるんですよ。

では、次は、なんでこんな壁が作られたのかを見ていきましょう。

 

ドイツの分割占領

1945年、おぞましいほどの戦死者を出した第二次世界大戦はヒトラー率いるナチスドイツの無条件降伏によって終わりました。この無条件降伏によってドイツは敵対していたソ連、アメリカ、イギリス、フランスの4カ国に分割占領されることになり、さらに首都ベルリンも4カ国に分割されることになりました。要するにドイツという国がこの時点で消滅してしまったということになります。

敵対するアメリカとソ連

こうして分割占領されてしまったドイツ。さらにとんでもないことにアメリカとソ連がドイツを降伏させた後から仲が非常に悪くなり、アメリカはソ連を閉じ込め、ソ連はそれに対抗して1948年にアメリカやイギリスが統治しているベルリンに対して物資が入らないように封鎖します。これをベルリン封鎖というのですが、これによってアメリカとソ連の対立は決定的なものに。ドイツはよりにもよってこの対立の最前線となってしまったのです。

 

西ドイツと東ドイツの成立

ベルリン封鎖がなんとか解かれた1948年、アメリカ、イギリス、フランスの占領地域が首都をボンとして西ドイツが独立。それに対抗するかのように10月には東ドイツが成立しました。

ここで注目して欲しいのが、西ドイツの首都がボンだということ。ボンというのは西ドイツの学問で有名な都市なんですが、どうして西ドイツの有名な都市であるミュンヘンやフランクフルトとかにしなかったのでしょうか?簡単ですよ。最後には東西ドイツを統一して首都をベルリンに戻したかったのです。

ミュンヘンやフランクフルトとかを首都にするとたとえ壁が壊されて東西ドイツが統一されてもさらにそこから元々あった西ドイツの首都をそのまま使うのかベルリンに移転するのかで揉めることがあるわけでした。そこで西ドイツ政府は憲法にベルリンが暫定的な首都と書いておいて実質的な首都を地味な都市であるボンに置き、もしもの時にスムーズに首都を移転させたのでした。賢いですね。

ちなみに、この時西ベルリンは東ドイツの中に孤立している西ドイツの飛び地となり、その様子は「赤い海に浮かぶ自由の島」と称されていました。

続々と亡命する東ドイツ国民

こうして1948年に2つのドイツが誕生して、ドイツは見事に朝鮮やベトナムみたいな冷戦の最前線の分断国家となってしまいます。

特に朝鮮やベトナムなどでは朝鮮戦争ベトナム戦争みたいに国境付近でいざこざがありそのまま全面戦争となってしまうという冷戦のお決まりのパターンで戦争が起こっていました。もしかしたらドイツも将来こうなってしまうかもしれません。

さらに西ドイツと東ドイツでは国民の生活や自由度が比べ物にならないほどの格差が存在していました。西ドイツではアメリカからマーシャルプランでの経済援助を受けたり、もともとあった技術力や工業力を見事に使い奇跡的な復活を成し遂げ立派な西側諸国の一員になっていました。その一方で東ドイツというと一応「社会主義国家の優等生」と評されてはいたのですが、敗戦後に工業力などが全てソ連に没収されたり、社会主義経済を取り入れたこともあり産業が壊滅的な状態でした。さらに生活の自由もかなり制限されており、そのため東ドイツ国民は自国の状態に絶望し、西ドイツの飛び地であった西ベルリンから西ドイツへと亡命する決意をしたのです。

ついに始まる壁の建設

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東ドイツが成立した翌年の1949年から壁が建設される1961年まで東ドイツでは273万人という東ドイツの全国民の約15パーセントの人が西ベルリン経由で西側諸国に亡命するという政府としては許しがたい状態となっていました。「このままでは東ドイツ国民がどんどん逃げ出して最終的には東ドイツが崩壊するかもしれない…」そう感じたこの当時の東ドイツのトップであるウルブリヒトはソ連のフルチショフ総書記に相談して西ドイツの国境に壁を建設して東ドイツ国民が西側諸国に行けなくするように計画を立てていきます。こうしてフルシチョフは1961年7月6日にウルブリヒト対して壁の建設を命令。そして8月13日にベルリン国境に有刺鉄線が敷かれ、ベルリンの壁の建設が始まり、東ドイツ国民は家族に会いたいみたいなどんな事情でも国境を越えることは許されなくなりました。

ちなみに、ベルリンの壁は突如として作られたのではなく、最初は有刺鉄線が張られ、その次の月にはコンクリートの壁になり、最終的な壁になったのは1975年以降のことだそうです。

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