日本の歴史

日本の原点と言われる「イザナギ・イザナミ」って結局何者?謎をわかりやすく解説

日本の最初の国書である日本書紀や古事記などには、日本列島を作ったのはイザナギ、イザナミの夫婦神であったと記述されています。神話は空想物語だと歴史とは見ていない古代史学者や考古学者がほとんどですが、あながち空想物語とは言えない面もあるのです。このイザナギ、イザナミについて解説します。

イザナギ、イザナミの夫婦神とは

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日本書紀や古事記には、イザナギ(男神: 伊弉諾、伊耶那岐)とイザナミ(女神: 伊弉冉、伊邪那美)の二神について記載があります。高天原の意向を受けて海を矛(天之沼矛:アメノヌボコ)で掻き回してその泥で日本列島を作ったと書かれているのです。日本史の教科書にも神話としてイザナギ、イザナミが記載されており、いろいろな神話とともに知らないうちに記憶に残っている神様といえるでしょうね。

このイザナギからは、現在の皇室の祖先とされる天照大神(オオヒルメムチ)や素戔嗚尊(スサノオノミコト)、月読尊(ツクヨミノミコト)が生まれています。その他にもイザナギとイザナミの夫婦神からは現在でも日本各地の神社に伝わる多くの神々や神殿が生まれているのです。

古代史学者や考古学者はこれらの話を空想物語といって片付けていますが、本当にこれらの神話は絵空事なのでしょうか。有名な考古学者のシュリーマン氏は、神話で架空の物語と言われたトロイ神話が実在したと信じて、トロイ遺跡を発見しました。確かに海を掻き回して日本列島が作られたことは、信じがたいものですね。でも日本列島を形づくっていく過程やイザナギ、イザナミによって生まれた天照大神などの神々が日本全国の神社に祀られていることを考えれば、あながち絵空事とは思えません。何らかの出来事があって、それが神話として伝えられたと考えるべきではないでしょうか。

イザナギとイザナミの疑問点

天照大神を生んだイザナギは、自分たちの皇室の祖先とはされていないのは大きな謎です。しかも高天原から日本列島を作るように言われたのに、イザナミには黄泉の国に出自があり、イザナギも淡路島で晩年を過ごし、死後そこに祀られたと書かれています。すなわち、最後は高天原とは関係がなくなっているのです。

日本の古代史学や考古学では、この日本の神話に現れるイザナギもイザナミも実在せず、単なる国生み神話で架空のものとして扱われてきました。しかし、日本書紀や古事記などには非常に生々しい表現で物語が作られており、何か出来事があったのではないかと考える必要があると思っています。

この神話として現実視されてこなかったイザナギとイザナミのふたりについて見ていきましょう。

イザナギとイザナミの出逢い

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高天原でアメノミナカヌシなどの神々が8代経ったときに、その後継者になったイザナギとイザナミは生まれました。高天原の命令で天浮橋(あめのうきはし)に立って天沼矛で海をかき回して日本列島を作ります。葦原(あしはら)の中洲国といわれていたのです。最初に矛のしずくで出来たのがオノゴロ島でした。そしてそのオノゴロ島でイザナギとイザナミはお互いに気に入り、結婚をして夫婦になったのです。オノゴロ島は現在の淡路島のそばにあったといわれており、紀伊水道のどこかと推測されています。

イザナギとイザナミが作った日本列島の順番

日本書紀によると、イザナギとイザナミが日本列島を作っていった順番は、オノゴロ島のあと瀬戸内から日本海に出ていきます。すなわち、淡路島、四国(伊予之二名島)のあと、隠岐島、筑紫島(九州)、壱岐島、対馬、佐渡島、大倭豊秋津洲(おおやまととよあきつしま:本州)となっているのです。これは、縄文時代に海人族がその勢力圏にしていった順番と考えられます。それは、本州以外はすべて島か海に面した地域になっていることからもわかるでしょう。内陸はないのです。

後の時代には、住吉族、安曇族などの海人族が各地に進出し、安曇族などは長野県の奥地にまで進出していて「安曇野」という地名まで残しています。しかし、イザナギ、イザナミの古い時代はまだ日本列島の沿岸に限られていたようです。

縄文時代のそれらの地域間の交易を担っていたのが、イザナギ、イザナミの海人族であったと考えられます。

縄文時代から海人族が存在した

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縄文時代には、同じような文様の土器が複数の地域で見つかっています。その点からも、土器の製作技術が波及していったのは、海人族の存在抜きには考えられないのです。

当時の縄文人集落の人々が、自ら土器を持って長距離を移動できたとは考えにくいといえます。当時の縄文時代は、前期から中期にかけては現在よりもかなり温暖な気候で、海が現在よりもかなり内陸まで入り込み、平坦な平地は少ない状況でした。あっても深い森に被われ、移動するには舟に依存せざるを得なかったのです。

しかし、縄文時代の食生活の跡を見ると、海辺でも沿岸で獲れる魚介、貝類などに限られていました。したがって、舟を使って長距離を移動するだけの技術を持った縄文人は少なかったといえるのです。

縄文集落間の交易や交流を担っていたのは、やはりイザナギ、イザナミなどのような専門の海人族だったといえます。

黒曜石の移動は海人族によるものだった

海人族の痕跡は、縄文時代に使われた精密石器の材料となった黒曜石の分布からもわかります。黒曜石の獲れる地域は限定されており、その地域、地域で黒曜石の成分は違っていることが科学的に分析されているのです。

長野県の安曇野で取れた黒曜石は、広く分布しており、関東北部でも使われています。また、八丈島の黒曜石も太平洋岸の多くの地域で使われていたことがわかっているのです。当時の集落の縄文人には八丈島まで舟で行く技術はなかったことから、やはり専門の海人族が運んだと考えられます。

縄文時代には日本語があったとは考えにくい

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また、縄文時代には、統一した日本語というも言語は存在したかはあやしいといえます。すなわち、縄文時代の人々は、さまざまな地域から来ていたことがわかっているのです。氷河時代に海が後退していたため、南方の台湾や沖縄などから渡って来た人々がいます。また、シベリア方面から樺太、北海道経由で大物のマンモス(ナウマン象)やトナカイを追って日本列島に来た人々、朝鮮半島経由で中国内部からきた人々などが存在していました。

彼らはそれぞれの言語を持っていたはずです。それぞれの地域に住み着いた人々はそれぞれ言葉が違っていたはずで、交易そのものが難しかったと考えられます。その意味で、日本列島の各地を結んだ海人族は、それぞれの言語に通じており、彼らを通じて日本語が形成されたと考えられるのです。

その意味でも、イザナギ、イザナミの海人族は、この縄文時代の日本列島の文化を統一していったと考えてもよいでしょう。

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