日本の歴史

日本の歴史に残るイケメンたちを4人厳選・解説~人物像もご紹介~

歴史上、華々しい活躍をしたとか、個性的なエピソードがあったとか、あるいは小説やドラマ、映画などの影響もあって「たぶんこの人はイケメンだったんだろうな~」と感じる人物っていますよね。でもイメージというのは恐いもので、いかにもイケメンっぽく感じる真田信繁(幸村)が活躍した頃は、アラフィフで当時としてはおじいちゃんでしたし、源義経だって史料によれば「不細工で、あばた顔で、出っ歯」と書かれています。しかし、実は本物のイケメンってけっこう存在していました。文献などによる裏付けや実際に残る写真など、今回は様々な観点から見て、間違いなくイケメンであろう歴史上の人物を取り上げてみました。しかも単に顔がイケメンというだけでなく、その行動も素晴らしくイケメンっぽい人だったということ限定で。肖像画や写真もリンクでご覧頂けるようにしてみましたので、お顔と記事の内容で人物像を想像してみてはいかがでしょうか。

わずか16歳で散った平家の貴公子【平敦盛】

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平敦盛といえば、織田信長が好んで舞った幸若舞【敦盛】が有名ですよね。人生の無常観と敦盛の短い一生を重ね合わせた悲哀感たっぷりの演目になっています。わずか16歳で亡くなった悲劇の貴公子、平敦盛をまずはご紹介しましょう。

平清盛の甥として生まれた敦盛

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By 狩野安信 – 須磨寺所蔵「平敦盛像」, パブリック・ドメイン, Link

1169年、敦盛は時の太政大臣【平清盛】の弟である経盛の末っ子として生まれました。当時の平氏は、初の武家政権を樹立させ、一族みな立身出世し、得意の絶頂期にあった頃だったのです。敦盛は、祖父の忠盛が後鳥羽院より賜ったという【青葉】という笛を譲り受け、笛の名手として有名になりました。

年がまだ若く、無位無官だったために【無官大夫】と呼ばれましたが、確実に将来が約束されていた貴公子だったのです。しかし、叔父の清盛が亡くなるとともに平氏には暗い運命が待ち構えていました。各地で平氏打倒のために源氏が立ち上がり、こぞって京の都へと迫ってくることに。

安徳天皇を保護しつつ、いったん西国へ落ち延びた平氏でしたが、追討の手が緩むことはなく、現在の神戸市中央区~須磨区のあたりで決戦が行われました。源氏の大将は源範頼と源義経。強力な敵でした。

敦盛、一の谷に散る

1184年、東から攻めてきた源氏の範頼軍に対して、平氏軍は一歩も引かずに一進一退の攻防を繰り広げていました。しかし、一の谷という思いもよらない断崖絶壁から義経軍が逆落としに奇襲を掛けてきたのです。これには平氏軍もたまらず算を乱して逃げ惑い、沖合の軍船めがけて敗走します。

兵士たちが軍船に乗るまで殿(しんがり)を努めていた敦盛は、とうとう逃げ遅れ、乗馬もろとも波間へ乗り入れました。すると後ろから追ってくる源氏の軍勢が。この中にいた武将が熊谷直実で、直実はこう言います。

あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵に後ろを見せさせたまふものかな。返させたまへ。

(そこを行かれるあなたは良き武将とお見受けいたします。見苦しくも敵に後ろをお見せになるものよ。引き返しなされ。)

引用元 平家物語より

沖の平氏の軍船は、自分を助けるために近づこうとしている。しかし、せっかく逃げおおせたのに今度は源氏の軍勢の餌食となってしまう恐れが。ここで敦盛は、味方を助けるために馬の首を取って返しました。直実に挑もうとするものの、相手は歴戦の強者。まだ幼い敦盛が叶うはずもありません。

直実が組み敷いて、敦盛の首を取ろうとしたところ、ようやくハッと気付いたのです。

とっておさへて首をかかんと甲をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄化粧して、かねぐろなり。わが子の小次郎がよはひほどにて容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。

(首を取ってやろうと兜を押しのけて見れば、年はまだ16、7で薄化粧をしてお歯黒をしている。我が子の小次郎ぐらいの年齢であった。顔立ちが大変美しく、どこに刀を刺してよいかも分からない。)

直実は恐る恐る尋ねました。「あなたはどのような身分の方なのでしょうか。助けたいと思います。」すると敦盛は、「名乗るつもりはないが、私の首を取った上で皆に聞いてみろ。お前の手柄になるだろう。」と答えますが、直実はなおも躊躇します。

しかし、後ろに控えた源氏の軍勢も大勢おり、直実は涙ながらに「この大勢に囲まれては、お逃げにはなれないでしょう。他の者の手に掛かるくらいならば、この直実の手でお討ちになり、後のご供養をさせて頂きましょう。」と訴えたのです。敦盛はニコリとうなずいて従容と首を討たれました。

この合戦の後、熊谷直実は出家し、法然上人の弟子となって敦盛の菩提を弔うことになりました。合戦場となった須磨浦には敦盛塚が残っており、現在も参拝者が絶えないとのことです。

南朝のために殉じた若き公家武将【北畠顕家】

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1333年、鎌倉幕府が倒れ、建武の新政がスタートしたと思いきや、不満を持つ足利尊氏らが独自に朝廷を押し立てたために、時代は南北朝争乱の時代に突入していました。劣勢となる南朝の中にあって、ひときわ光を放っていたのが北畠顕家だったのです。

顕家、鎮守府将軍となる

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By 不明1, パブリック・ドメイン, Link

顕家は建武の新政のもと、弱冠15歳にして鎮守府将軍として奥州(現在の東北地方)へ下向します。目的は不穏な動きのある奥州を鎮圧するためでした。顕家の出自は公家でしたが、まったく公家らしくない知略と勇気を持ち合わせており、見た目は幼く女性のようであっても当代一流の武人として勇名を馳せていたのです。

当時の書物である「舞御覧記」には、顕家の容姿がこのように描かれています。これによれば、非常に優雅で落ち着き払った美少年の姿が浮かんでくるのです。

この比世におしみきてえ給ふ入道大納言の御子ぞかし。形もいたいけしてけなりげに見え給に。此道にさへ達し給へる。

(北畠親房公のご子息であり、姿は幼くてかわいいながらも、態度がしっかりしているように見受けらる。舞の腕前も高い域に達している。)

その頃、鎌倉で反旗を翻した足利尊氏軍は、南朝の抵抗を打ち破って今日の都へと迫ります。そこで立ち上がったのが顕家でした。1336年、奥州の兵を引き連れ、足利軍の後を追うかのように進軍を続け、まずは関東で敵をさんざんに打ち破りました。

その後も快進撃を続け、そのスピードは羽柴秀吉の中国大返しの速度を上回っていたといいます。そして京都近郊で二度にわたって足利軍を完膚なきまでに叩き潰し、九州へ敗走させることに成功したのでした。その後再び奥州へ戻ることになりましたが、敗走したはずの足利尊氏はなおもあきらめません。

京への再出撃と、その最期

その1年後、鬼の居ぬ間に。いや顕家の居ぬ間に、力を蓄えて九州から進撃してきた足利軍は、南朝軍を撃破して京都を奪い返しました。そしてまたもや顕家に京都奪還の綸旨が下ったのでした。奥州から長駆走ってきた顕家軍は、現在の岐阜県のあたりで足利軍を撃破しますが、受けた損害も大きく、いったん伊勢(三重県)へ後退します。

その後、顕家は畿内各地を転戦しますが戦況は芳しくなく、顕家の軍略をもってしても南朝方の劣勢は覆しようもありませんでした。

最期の決戦の近づく中、顕家は後醍醐天皇に対して政治の失敗を諫める奏上文をしたためています。なぜ建武の新政が失敗し、なぜ足利氏が反乱を起こすに至ったのか?それは【朝廷の怠惰】【政治の腐敗】だと断じていたのです。今日、南朝がこれほど劣勢なのは、そこに原因があるのだと訴えたかったのでしょう。

最期の戦いの地は現在の堺市石津のあたり。そこで顕家は奮戦しますが、連日の戦いの疲れから戦況は不利に。最後はわずか200騎ほどに討ち減らされ、なおも戦い続けるのですが、ついに落馬したところを討ち取られたのでした。享年20歳。若すぎる公家武将の死は、南朝に衝撃を与えました。

足利尊氏最大の強敵でありライバルでもあった北畠顕家。今もなお軍神として阿倍野神社に祀られています。

聡明さと武勇に優れた若き獅子【木村重成】

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関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、政治の実権が徳川氏へと移ったのち、豊臣最後の戦いで輝きを放った一人の若武者がいました。彼の名は【木村重成】。今もなお語り継がれる重成の人間像に迫りたいと思います。

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