朝鮮戦争の勃発は戦後日本に大きな変化をもたらした
そして、1950年には、北朝鮮軍が南朝鮮の韓国に軍隊を侵入させたことによって朝鮮戦争が勃発したのです。この北朝鮮軍の侵略に対して、アメリカ軍を中心とした国連軍が形成され、朝鮮に派遣され、マッカーサーが司令官に就任しました。さらに、中国が北朝鮮軍を支援したことから戦争は長期化します。その結果、それまでうまくいっていなかった経済政策でしたが、日本に戦争特需が生まれ、経済は一気に大きく発展したのです。そして、朝鮮半島の国連軍の後方支援の役割を担うようになります。それによって、GHQと西側諸国は、日本の共産主義陣営に対する防波堤の役割を認識するようになったのです。
なぜサンフランシスコ講和条約の締結が必要になったのか
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GHQや米国を宙は親とした西側諸国は、朝鮮戦争が長引くことによって、日本の存在が必要になっていきました。日本の生産力によって、朝鮮半島の軍事力を維持することができたからです。逆に、その日本に対する国連軍の需要は、日本経済、日本の生産力を大きく引き上げ、日本は好景気に沸きました。
これによって、日本は、戦争のできない経済力のない国ではなくなったのです。さらに、米国や西側諸国は、対共産主義陣営に対する防波堤として日本を機能させることが、必要不可欠になっていきました。
共産主義の拡散に対する防波堤としての日本の見直し
その結果、GHQだけの問題から、アメリカ自身のアジア政策として、アメリカ政府自身が日本の独り立ちを画策するようになっていったのです。当時の日本の総理大臣であった吉田茂は、この機会を逃さず、GHQだけでなく、アメリカ政府や西側諸国との交渉を行って、日本の独立を目指します。
しかし、日本を再び、軍事国家にすることはできません。そのため、日本が共産主義陣営に対する防波堤になるためには、アメリカ軍が日本に常駐する必要があったのです。しかも、日本自身にも最低限の防衛力を持たす必要もありました。そのために、吉田茂は、国内に警察とは別組織の警察予備隊を作って、最小限の防衛力の構築を目指します。この警察予備隊は、後に保安隊と改称され、さらに現在の自衛隊につながったのです。
但し、この方針は、日本国内でも当初の民主化や軍事力の放棄という方針から大きく逆転するものとして、社会党や共産党を中心として国民から反対意見が出されました。しかし、吉田茂はそれを抑えて、サンフランシスコ講和条約に漕ぎ付けたのです。
第二次世界大戦を終わらせたサンフランシスコ講和条約
サンフランシスコ講和条約の締結によって、日本は、第二次世界大戦敗戦後の占領国の立場から、独立国として国際的にも認められることになりました。そして、本格的な経済回復に向けてスタートしたと言えます。朝鮮戦争の特需によって生産設備の投資によって、その発展の基盤は整っていました。しかし、戦争による特需による好景気は、戦争が終わった後には大きく落ち込むことは、過去の第一次世界大戦後や日露戦争後の恐慌で経験積みでした。予想通り、朝鮮戦争の終わった後には不景気になり、本格的な高度経済成長時代に入るには5年ほどかかっています。
また、サンフランシスコ講和条約においては、日本が海外に持っていた植民地や領土は放棄することとなり、台湾や朝鮮半島の独立を認め、台湾、南樺太、北方4島を除く千島列島(クリル諸島)を放棄しました。さらに、沖縄、小笠原諸島などはその帰属については触れられません。
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