味噌汁っていつからあるの?歴史と共に全国のご当地お味噌汁もご紹介
- 日本の歴史に初めて味噌汁が登場する!
- 味噌は中国から伝来した保存食
- 上級貴族から武士へと広まっていった味噌
- 庶民たちによる味噌汁文化が花開く
- 全国的に農作物の生産効率が上がった室町時代
- 味噌汁が一般的なものとなった江戸時代
- 戦中から戦後へ。進化する味噌汁
- 全国にある「ご当地お味噌汁」をご紹介!
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この記事の目次
日本の歴史に初めて味噌汁が登場する!
現在こそ普通に飲まれている味噌汁ですが、最初は飲むものではなくて摘まむものでした。スタートはあくまで保存食だったのです。まずは味噌汁の起源を見ていきましょう。
味噌は中国から伝来した保存食
「味噌はいったいどのようにして作られたのか?」というテーマには、実は定説がなく、中国伝来説と日本起源説の二つが拮抗しているのです。ただ、当時の製造技術の源は確実に中国起源かと思われますので、ここではあくまで【中国伝来】という形で解説していきたいと思います。
飛鳥時代~奈良時代の頃、日本は大陸文化を享受しようと頻繁に遣隋使や遣唐使を派遣していました。中国から伝わった文化の中には食べ物の製造技術に関する事柄も含まれており、日本の食文化とは、まず大陸の模倣から始まったのですね。【塩】を使って食べ物を保存するということも、この頃に伝わりました。
肉や魚、野菜なども【塩漬け】という方法で保存が効くということで、様々な食材が塩漬け~発酵の流れで保存食として珍重されていました。食材が発酵した場合、それらは【醤(ひしお)】という状態となり、旨み成分であるアミノ酸がたっぷりとあり、美味しいために日本で広まりました。ちなみにタイの調味料ナンプラーなども魚醤なので、同じものだといえるでしょう。
大豆の場合は特に発酵の度合いが非常に素晴らしく、豆を醤にするとたいへん美味しいので、様々な文献や史料にその素晴らしさが伝わっているのです。しかし現在のようなペースト状のものではなく、豆本来の形をした納豆のようなもので、当時は摘まんで食べていたそうですね。
上級貴族から武士へと広まっていった味噌
そのようにして作られていた最初期の味噌ですが、平安時代までの頃は贅沢品で上級貴族しか食べることができませんでした。朝廷のしきたりや行政の形式をまとめた「延喜式」の中にある「造雑物法」にはその記述があり、貴族たちへ支給された物品の中には「醤」や「麹(こうじ)」などの他に「未醤(みしょう)」というものがあります。この未醤がいわゆる味噌なのであり、簡単に手に入らないだけに贈答品としても喜ばれていたのです。
そして時代は下り鎌倉時代。中国の宋にならった京都五山や鎌倉五山などの禅宗寺院が多く建てられ、中国南部からも高名な僧が来日するなど、新しい習慣や食文化も流入してきた時代でした。すり鉢が伝わったのもこの頃で、粒状の味噌を細かくすり潰し、汁に溶かして飲むという味噌汁の習慣が武士たちの間に広まったのです。これ以降、武士たちの献立は一汁一菜という形式が基本となりました。
また戦場へ赴く武士たちにとっても味噌は重要な栄養源となりました。味噌を焼くことで保存食とし、お湯に溶かせばそのまま味噌汁が飲めるように工夫したのです。現在あるインスタントみそ汁の先祖のようなものでした。
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庶民たちによる味噌汁文化が花開く
いよいよ貴族や武士達だけのものだった味噌汁が、一気に庶民たちの間で広まることになります。日本各地へ伝播するにつれ、地方ごとに特色のある味噌汁文化が花開くことになるのです。
全国的に農作物の生産効率が上がった室町時代
鎌倉~室町時代には、農機具の発達や、人糞を使った肥料をはじめとする農業技術の発達に伴って、農業生産量が比較的に向上しました。それはコメだけにとどまりません。大豆や稗、粟などの作付けも奨励されたため、味噌の原料となる大豆が手に入りやすくなったのです。
有名な味噌の名産地として名高い岡崎の八丁味噌や、新潟の越後味噌、長野県の信州味噌などでは、この頃から味噌の生産が盛んとなり、庶民たちの口にも入るようになりました。また、味噌の製法が広まったために自家製で味噌を作る家も多くなり、やがてそれは様々な味噌のバリエーションを生むことになるのです。
この室町時代には、魚醤などに代わって【豆醤(まめびしお)】が登場し、これがいわゆる醤油の原型であるとされています。すでに存在していた塩や酢、砂糖や味噌などの調味料に加えて醤油が登場したわけで、これで現在の日本料理へ繋がる素地ができあがったわけですね。
味噌汁が一般的なものとなった江戸時代
戦国時代には兵糧の確保という目的から、戦国大名たちがこぞって味噌を製造し、やがてそれは地方独特の味噌文化として花開くこととなります。奥州の伊達政宗などは城下に【御塩噌蔵(おえんそぐら)】という日本初の味噌工場を完成させるなど、日本各地で製造が活発となりました。
やがて戦国時代が終わりを迎えると、各地の御用商人たちによって味噌の製法が引き継がれていきます。商品流通の発達に伴って、市場にも多くの味噌が商品として売買され、庶民にとってもなくてはならない食材となりました。また、味噌汁の具にするための野菜も各地で作られ、江戸の町中でもそこかしこで大根や小松菜、ニンジンや茄子などが作られていたといいます。
江戸では野菜以外の具も手に入れることができたといいますね。東京湾からも近いため、江戸前のシジミやアサリなどの魚介類も味噌汁として食べられていたそうです。こうして朝晩の食事には味噌汁が付き物となり、日本人とは切っても切れないものとなったのですね。
戦中から戦後へ。進化する味噌汁
明治以降の日本が最も食糧難だった太平洋戦争の最中。それでも味噌汁は日本人の主食であり続けました。戦地で最も重要だった糧食はコメ。ついで味噌だったそうです。南方の戦地などでは味噌汁の具がバナナだったり、トカゲの肉だったりしたそうで、意外と美味しかったという兵士の回想が残っています。
内地でも食糧不足は現実的な問題で、とにかく「今こそ決戦食を!」というスローガンのもと、新聞や雑誌では食べられそうな野草などが紹介されています。タンポポ、ナズナ、アザミなど、きんぴらやお浸し、味噌汁の具として食べられていました。
やがて戦後となり食糧事情が改善されてくると、従来の味噌の製法にも行政指導が入るようになりました。その当時はまだ自家製で作っている農家も多かったのですが、1948年に農村生活改善普及事業が始まり、製法に関するガイドラインが取り決められることとなり、衛生面や栄養面など改善指導が入ったのでした。それは味噌の味にも劇的な変化をもたらすこととなり、現在の一般的な味噌の味が、この頃に決まったともいわれています。
1974年、ついに画期的な味噌汁が登場しました。現在のインスタント味噌汁の主流ともいえるフリーズドライ製法が確立しました。長期保存にも耐えるこの商品は、日本人の食生活すら変えたといえるでしょう。続く1981年にはだし入り生みそタイプも発売され、今や誰でも簡単に味噌汁を食せる時代となったのです。