日本の歴史昭和

現在の日本を生んだ「サンフランシスコ講和条約」背景と過程をわかりやすく解説

条約に参加したのは西側諸国のみ

サンフランシスコ講和条約で独立を果たしたとは言え、調印したのは西側諸国の49ヶ国のみでした。ソ連やまだ国際連合にも加盟が認められていなかった中国をはじめ、共産諸国や韓国ともまだ国交を回復していなかったのです。(国際連合には、現在の台湾である中華民国が参加)しかし、日本は、防衛を駐留米軍に依存して、国防費に回すべき資金を経済成長につぎ込むことができました。1955年以降には、高度経済成長時代に突入することが可能になったのです。1956年の経済白書では「戦後は終わった」と記載され、さらに1964年には、OEC(経済協力開発機構)にも加盟が認められました。

サンフランシスコ講和条約後の日本

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サンフランシスコ講和条約によって再独立を果たした日本は大きな課題がありました。講和条約そのものの目的が、共産主義国家への防波堤になるとともに、日本そのものの防衛をどうするかという問題があったのです。そのため、条約締結の翌1952年には、アメリカと安全保障条約を結びます。GHQは無くなったものの、駐留米軍は規模を縮小するものの日本での駐留を続け、ソ連や中国が攻めてきた時には駐留米軍が戦って日本を守るという条約を結んだのです。

そして、日本各地には、多くの米軍基地が残り、時代遅れの治外法権が残りました

日本の独立と警察予備隊から保安隊に、さらに自衛隊に再編成

そして、警察予備隊は保安隊に再編され、さらに1954年にはついに自衛隊に格上げされたのです。安全保障条約や自衛隊の創設に対しては、日本社会党や共産党などは、戦後の平和路線に対する逆行と批判をしましたが、日本独立のためにはこの道しかないということで、吉田総理は押し通しました。

A級戦犯の釈放がもたらしたもの

独立を果たしたことによって、A級戦犯として巣鴨の刑務所に収監されていた岸信介や鳩山一郎なども釈放され、政界に復帰しました。特に、岸信介は、1941年の太平洋戦争に突入させた東条内閣で商工大臣を務め、戦争に積極的に関与したことを追求されていた典型的な保守派でした。そのような保守派と言われていた人たちが復帰して、吉田茂の自由党と保守合同したのが、1955年に成立した自由民主党なのです。

A級戦犯の解放はよかったのか

岸信介は、その後に総理大臣になり、安全保障条約の改訂に取り組みます。1952年に結ばれた安全保障条約は、アメリカが日本を守るということが柱になっていました。しかし、岸総理は、戦争を肯定した保守派らしく、日本とアメリカは相互に守るという対等な条約への変更を目指したのです。今では当たり前のように言われますが、当時は、再び戦争に巻き込まれることを怖れた野党の呼び掛けに、国会周辺には60万人ものデモ隊が押し寄せる事態になりました。岸総理は、安全保障条約を成立させると辞職したのです。

その当時の危惧は、ソ連が崩壊し、東西冷戦が無くなった現在において現実化しているのは皮肉なことと言えるでしょう。

共産諸国との講和条約は未だにできていない

共産主義国との講和条約は、ソ連崩壊後のロシアとの間でも未だに結ばれていません。ソ連とは1956年に日ソ共同宣言によって国交を回復したものの、正式な平和条約は未だに締結されず、北方4島も未返還のままです。また、中国とも日中共同宣言によって国交を回復したものの尖閣諸島などの帰属問題は置かれたままで、未だにぎくしゃくした関係にあると言えます。

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