満州事変の背景
1920年代、日本は政友会と憲政会・立憲民政党が交互に政権をとる政党政治の時代でした。政友会は満州・中国に積極的に進出するべきだとする積極外交を主張。憲政会・立憲民政党は国際協調を重んじる協調外交を主張します。金融恐慌の処理に失敗した憲政会の第一次若槻礼次郎内閣が総辞職した後、積極外交を主張する政友会の田中義一が組閣。日本の大陸進出が本格化しました。
日露戦争の勝利と関東軍の設置
1904年、日本は朝鮮半島や満州をめぐる対立から大国ロシアとの戦争に踏み切りました。日露戦争です。日本は多くの戦死者と多額の戦費をつぎ込むことでかろうじて勝利することができました。講和条約であるポーツマス条約で日本は賠償金を得ることはできません。
かわりに、旅順や大連を含む関東州を中国から借りる権利(租借権)と南満州鉄道の経営権を得ます。日本は関東州と南満州鉄道を警備する軍として関東軍を創設しました。関東軍は設立当初1万人・一個師団規模でしたが年々増強。満州事変から10年後の1941年には70万もの兵力を擁するまで巨大化しました。
本来は関東州警備が主な任務でしたが、次第に政府や軍中央の指令を聞かなくなっていきます。このことは満州事変の原因の一つといってよいでしょう。
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田中義一内閣の強硬外交
1927年、金融恐慌への対策に失敗した憲政会の第一次若槻礼次郎内閣が総辞職。かわって政権に就いたのが政友会の田中義一でした。田中は蔵相の高橋是清の活躍で金融恐慌を鎮静化させると、中国大陸に積極的に進出する政策をとります。
田中は満州を日本が特殊な権益と利害関係を持つ地域だと考えました。田中内閣は満州やとなりの内蒙古の問題について妥協することなく強硬姿勢で臨みます。
1927年、田中は満州・内蒙古に関連する要人を集めた東方会議を開催。東方会議では中国東北部(満州・内蒙古)を中国本土から切り離し、日本の権益を実力で守ることや排日運動を武力で排除することなどを決定しました。また、1927~28年にかけて蒋介石率いる国民革命軍が北上するのを阻止するため山東出兵を行います。
張作霖爆殺事件
1920年代の中国は、軍閥とよばれる軍事政権が各地を支配していました。辛亥革命を起こした孫文の後継者となった蒋介石は各地の軍閥を倒しながら中国統一を目指します。この動きを北伐といいました。
蒋介石は南京を占領すると南京国民政府を樹立。蒋介石は上海クーデタで共産党を追放するなど権力基盤を固めると北京を目指して北伐を再開しました。
当時北京を支配していたのは張作霖。満州から北京にかけて支配する軍閥で日本の支援を受けていました。蒋介石軍の勢いを見て日本は張作霖に満州まで退いて迎撃するよう進言しますが張作霖はこれを拒否。蒋介石軍と戦い大敗を喫します。張作霖は軍の大半を失いました。
関東軍はこの機に張作霖を排除して満州を直接占領することを計画。列車に乗っていた張作霖を爆殺しました。事件の真相を隠したことから田中義一は天皇に叱責され総辞職します。一方満州では張作霖の息子である張学良が蒋介石に味方し中華民国旗を掲げました。関東軍による満州分離は失敗したのです。
満州事変の経過
張学良が蒋介石の指揮下に入った後も、関東軍は満州進出をあきらめてはいませんでした。関東軍参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)らは将来的なアメリカとの戦争に備え、満州や内蒙古を日本が領有するべきだと考えます。関東軍は南満州鉄道の一部を意図的に爆破。中国軍の仕業であるとして満州を制圧しました。
柳条湖事件の発生
張作霖爆殺事件の首謀者であった河本大作大佐の後任として関東軍参謀となったのが石原莞爾中佐です。このころ、満州では張学良が南満州鉄道に並行する形で新たな鉄道を建設しようとしていました。張学良の動きは南満州鉄道の権益を脅かしかねないと考えた石原は直接の上司である板垣征四郎大佐とともに張学良の排除と満州制圧のための作戦を練ります。
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖の付近で南満州鉄道の線路の一部が爆破されました。関東軍は「爆破は中国軍の仕業だ」と主張し即座に出兵します。翌日、関東軍は奉天・長春・営口など満州南部の都市を攻略しました。
張学良が指揮下の軍に対し、日本軍の挑発には慎重に対応せよと命じていたため、中国軍は本格的な抵抗をせずに撤退。9月19日には南満州鉄道沿線の主要都市をすべて制圧しました。この一連の軍事行動を満州事変(満洲事変)といいます。