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世界の破滅のチキンレースであった冷戦をヤルタ会談からマルタ会談までわかりやすく解説

世界を恐怖のどん底に叩き落とした第二次世界大戦。その終戦直後にアメリカとソ連という二大超大国が再び戦争が起こるのではないかとヒヤヒヤする場面が続きました。この状態のことを冷たい戦争と書いて冷戦と呼ぶのですが、どうしてこんな状態になってしまったのでしょうか?今回はそんな冷戦についてわかりやすく解説していきます。

世界の二大巨頭のアメリカとソ連

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第二次世界大戦が終わり、アメリカやソ連などの連合国が勝利すると、アメリカなどは戦後の新秩序として国際連合を創立。またアメリカをリーダーとした世界体制を構築していきます。しかし、これが面白くないのがソビエト連邦(ソ連)。特にこの当時のソ連の主導者であったスターリンはアメリカが主導権を握ることによってソ連のことを脅かすのではないかと考え始めます。このような恐怖に駆られたソ連はヤルタ会談という第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた会議の時に決められたいわゆる東欧と呼ばれるところに影響力を拡大させていき、ソ連が掲げていた社会主義の力を増していこうとしていました。

一方アメリカのどちらかといえば親ソ派であったフランクリン・ルーズベルトが亡くなり、トルーマンが大統領となると急速にアメリカは勢力を拡大させるソ連に対してどんどん警戒心を強めていきます。こうしてどんどん関係が悪くなっていったアメリカとソ連は対立。冷戦の幕が切って落とされたのです。

この様子をイギリスのチャーチル首相は1946年の演説にて「バルト海のシュテッティンからアドリア海のドリエステまで鉄のカーテンが降ろされた」とソ連を批判しています。そしてチャーチルが言った鉄のカーテンの名の通り対立状態が深まっていくのです。

東西の対立

対立をどんどん深めていったアメリカとソ連ですが、1947年にアメリカがトルーマンドクトリンを発表してソ連を閉じ込めると冷戦は一気に激化していきました。

1949年にはアメリカ・イギリスを始め西側諸国が集まり北大西洋条約機構(通称NATO)を結成。ソ連に対抗します。しかし、1955年にはソ連でもソ連の影響を強く受けていた衛星国を中心にワルシャワ条約機構を結成。アメリカとソ連による冷戦は決定的なものになりました。

ヨーロッパでの冷戦

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ヨーロッパではアメリカとソ連が一番力を注いだ地域ということもあってここら辺が冷戦の最前線ともいってもいいほどでした。特に第二次世界大戦で敗北したドイツは戦後分割され、西側諸国の西ドイツと東側諸国の東ドイツとして分断国家として成立します。次はヨーロッパでの冷戦を見てみましょう。

マーシャルプラン

アメリカは冷戦に入ると西側諸国に対してソ連に対抗してもらうために第二次世界大戦の傷跡を早く治すように経済援助を行います。そりゃアメリカ一国よりもイギリスやフランスなどが味方として働いてくれたら心強いではないですか。この経済援助のことを当時のアメリカの国務長官の名前からマーシャルプランといいます。このお陰でイギリスやフランスなどは予想外の速さで復興を成し遂げ、特に西ドイツはやがてGDP(国内総生産)が3位にのし上がるまさに奇跡の復興を果たしていきました。

しかし、ソ連も負けていられません。ソ連も東側諸国に対して経済援助を行うために経済相互援助会議(COMECOM)を結成。マーシャルプランによって成長していく西側諸国に対抗していくのでした。まぁ、社会主義経済を取り入れている時点で西側諸国に勝てるわけないんですけどね。

ベルリンの壁の建設

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1961年、突如として東ドイツと占領地域の問題で西ドイツの飛び地となっていた西ベルリンの国境に壁が建設されました。いわゆるベルリンの壁です。なんでこんな壁を突如として作ったかというと実はこの時東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西側諸国に亡命する事態が相次いでいたのでした。

東ドイツ国民からすれば自由がなく、好きなものも買えない社会主義の仕組みに絶望していたため、自由に仕事ができてさらに好きなものが好きなだけ買える西側諸国に行くのは我々からしても普通の感情だと思いますが、東ドイツ政府からすれば貴重な労働源がなくなることを意味していたためこの状態をなんとかしなければいけません。

そこで当時の東ドイツのトップであるウルブリヒトはフルチショフに対して壁の建設について話し合い、そしてついに西ベルリンに壁が作られて東ドイツ国民は西側諸国に亡命する手段を無くしてしまったのです。このベルリンの壁は冷戦の最前線の真っ只中にあったこともありこれから先冷戦の象徴となっていくのでした

アジアでの冷戦

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アメリカが一番気にしていたのがアジアの社会主義国化だったと私は思っています。アジアでは日本が敗戦した後、独立運動が巻き起こり、インドシナ半島では社会主義国として独立する国もちらほら現れていき、また中国大陸では中華人民共和国と中華民国が中国の覇権を争って国共内戦を行なっていました。次はアジアでの冷戦を見てみましょう。

 

中華人民共和国の成立

第二次世界大戦で日本が敗戦し日中戦争が終結すると中国国内では蒋介石率いる国民党毛沢東率いる共産党がお互いに対峙する状態となります。ここで仲良くなればいいものの、あろうことか国民党の蒋介石は共産党が大嫌い。国共合作も日本と張り合うために嫌々結んだものではなから共産党を潰すつもりでいました。

こうして中国では1946年から1948年までの間国共内戦が起こり、中国国内で国民党軍と共産党軍が争っていきました。もちろんアメリカからしたら中国共産党に中国を支配されたら困ります。そのためアメリカは蒋介石に対して援助を行うのですが、国民党の中で汚職が蔓延したり、共産党が土地解放を行なって農民の支持を得たことがきっかけでどんどん蒋介石は押されていき、そしてついに重慶が陥落し成都にも共産党軍が押し寄せると蒋介石は中国から台湾に脱出。国共内戦は共産党の勝利に終わり1948年に中華人民共和国が成立して中国は共産主義国化しました。

 

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