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神仏の破壊者になった【大友宗麟】神の国を造ろうとした男をわかりやすく解説

1549年、フランシスコ・ザビエルが日本へ布教に訪れて以来、戦国時代から江戸時代初期にかけ、多くのキリシタン大名が登場しました。特に南蛮(ヨーロッパ)との玄関口ともいえる九州では大友宗麟や大村純忠、有馬晴信などの大名たちが積極的にキリスト教を保護したおかげで、優れた文化や技術、武器等がいち早く伝わってきたといわれています。その中でも豊後(現在の大分県)を本拠地にする大友宗麟は、九州に一大キリスト教国を築こうとしたとされていて、戦国時代を知る方なら、知らない人はいないくらい有名な話なのですね。そこで今回は大友宗麟にスポットを当て、九州の大大名である宗麟がなぜ自らキリスト教徒となったのか?なぜバチカンのような国をわざわざ作る必要があったのか?信頼のおける史料も含めて、wikipediaやコトバンクでは絶対に学べない「その謎」を解明していきたいと思います。

戦国時代の大友氏とはどんな大名だった?

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多くの武家と同じように関東で興った大友氏なのですが、鎌倉時代にはさっそく九州へ下向し、以来、400年近くにわたって九州で勢力を張った有力者でした。今回の主人公は第21代当主【大友宗麟】。彼が歴史の表舞台へ登場する頃の大友家中は、血なまぐさい事件で彩られようとしていました。

実父を殺害か?【大友二階崩れ】

多くの戦国大名たちがそうだったように、内紛や内輪もめの原因といえば、家督相続の問題が絶えず絡んでいました。大友氏も例に漏れず、先代の大友義鑑(よしあき)は、若気の至りで少々粗暴な面のあった義鎮(宗麟のこと)と不和になり、どちらかといえば温厚で柔和な塩市丸に家督を継がせたいと考えていました。

なんとか塩市丸を立ててやりたいと考えた義鑑は、義鎮が留守の隙に、義鎮に味方する重臣たちを粛清しようと図ります。ところが、事前に密告した者がいたためか、「殺されてたまるものか!」と激高した重臣たちによって逆襲され、義鑑は塩市丸ともども殺されてしまいました。大友館の二階で起こった事件のため「大友二階崩れ」と呼ばれていますね。

急を聞いて馳せ戻ってきた義鎮はびっくり仰天。もしかしたら仰天したふりをしていたのかも知れませんが、廃嫡の危機を迎えていた義鎮は、これでめでたく家督を相続したのです。一説には、重臣に指示を出して襲わせたのが義鎮の仕業だともいわれていますが、死人に口なしとはまさにこのこと。襲った犯人はすでに切り殺されているので、真実は闇の中となりました。

数多の戦いを経て最大版図を築いた大友氏

1550年に義鎮が家督を継いだのち、しばらくは大友氏を囲む環境は平穏そのものでした。ところが状況が変わってきたのは、隣国の大内氏が毛利氏によって滅ぼされてから。中国地方の大大名へと成長した毛利氏は、大友氏領国の北九州あたりにちょっかいを掛けてきたのです。

10年にもわたる毛利氏との戦いの中で、調略を受けた重臣たちの反乱もあったものの、それらを全て鎮圧し、逆に周囲の敵対勢力をも取り込んで最大6か国にも及ぶ最大版図を築き上げたのでした。この頃が大友氏の絶頂期であったともいえるでしょう。義鎮が出家して宗麟(そうりん)と改めたのも、この頃のことですね。

この前後に北九州一帯へ広まったキリスト教とともに、イエズス会との繋がりを重要視していく宗麟。彼の人生もまたキリスト教によって変遷していくのです。

南蛮貿易と現世利益

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By 狩野内膳 – リスボン国立古美術館, パブリック・ドメイン, Link

遠く日本を目指して渡ってきた南蛮人がもたらしたもの。それは文化だけではなく、合戦の在り方を変えた武器と、日本人が初めて目の当たりにするキリスト教の教義でした。これらは宗麟に好意的に受け止められ、豊後の府内は一大貿易拠点として栄えていきました。

南蛮貿易によって大きな利益を得た大友氏

明や朝鮮とも貿易を行っていた大友氏でしたが、主に嗜好品ばかりで貿易額も大したことがなく、あまり力を入れていなかったことがわかっています。それよりも宗麟にとって、イエズス会の宣教師らと接触することによって得ることができる利益のほうが遥かに大きいものでした。

1553年、府内を訪れたイエズス会宣教師バルタザール・ガーゴらの一行が宗麟に拝謁した時のこと。宗麟が南蛮貿易に対して前のめりになっていることが伺えます。

 

「司祭が、当地に滞在することから大いなる満足を得ていること。そして、司祭の仲介によりインド副王と交渉出来ることは、切に念願してきたこと。」

引用元 「フロイス日本史」より

 

さらに1567年には 敵対している毛利氏を意識して、当時中国に滞在していた司教ドン・ベルショール・カルネイロに対して、以下のように要請しています。

 

「もし予が山口の国王に対しする勝利を望むとすれば、一つには司祭らをよりよく、当初よりもいっそう多大な庇護と共に再びかの地に戻らせるためで、予の望みが実現に至るには貴下の援助が必要だ。」

「予のもとに良質の硝石10ピコをカピタン・モールが毎年持参すること。代価として100タエル、ないし貴下が指示するものを与えること。そして山口の王には良質の硝石を一切送ることを禁じること。」

引用元 「イエズス会日本報告集」より

 

山口はイエズス会が最初に布教活動を行った土地。すでに毛利氏の支配下にありましたが、戦争に勝った暁には再び山口で布教活動を許すというもの。そのためには戦争に勝つための大きな援助が必要だと言っています。

さらに、鉄砲に使う火薬の原料になる良質の硝石を毎年納めるように。と要請していて、それと共に敵方の毛利氏へは一切送らないようにと釘を刺しているのがおもしろいですね。

また、インド副王がフランキ砲を送ってくれたことに対して、宗麟が大いに喜びと感謝を表明していたという記録も残っており、イエズス会宣教師に対する好意はますますつのっていきました。ちなみにこのフランキ砲は国崩しと呼ばれ、後の対島津戦で大いに活躍したともいわれていますね。現在は臼杵城跡にレプリカが安置されています。

キリスト教の現世利益を目の当たりにした宗麟

当時の日本では、病気や災厄などを祓うためには加持・祈祷を行うことが一般的でした。とにかく生活のすべてに吉兆が絡むため、非常に不合理な暮らしをしていたのかも知れません。しかし宣教師らの教えは違いました。「現世利益(げんせりやく)」という売り文句のもと、病気や災厄を祓い、願い事までたちどころに叶えてしまうマジックに仰天した日本人も少なくなかったのです。

 

「その地(豊後)でその効果が大きかったことは、遠方から人々が聖水を求めにやってきて、それで快癒するほどであった。」

「府内のある村で、悪魔に憑かれた住民が、司祭バルタザール・ガーゴの指示により『サン・ミゲル』と唱えたところ、震えだし、幾度となく、その場にいた人々が少なからず恐怖を覚える程の恐ろしいしかめ面をした。だが司祭が彼の上に聖なるイエズスの名を呼びかけて『父と子と聖霊の御名によりて、アーメン』と言うと、彼は悪魔から解放され、立ち直って話し出した。」

引用元 「フロイス日本史」より

 

少し芝居がかったような、欺瞞めいた印象が拭えませんが、それまで加持・祈祷しか知らなかった人々にとって、奇跡を目の当たりにすることは衝撃的だったことでしょう。

布教当初は下層階級の人々しか入信しませんでしたが、徐々に府内での信者は増えていったようです。宗麟もまた、改宗こそしませんでしたが、キリスト教の現世利益には大いなる期待を寄せ、宣教師たちへの尊敬の念を深めていきました。

 

「司祭らが彼の領土に入ってから、全能のデウスに、彼が切に望んできた『子孫繁栄を与えるよう祈る』と語ってきたが、爾来、彼は大勢の子供を授かるに至り、当初は有していなかった諸王国を新たに征服して、その都度いっそう強力な君主となるに至ったのを見たことが、彼に、司祭らへの寵愛と敬意をもつ、さらなる動機であった。」

引用元 「フロイス日本史」より

 

子供のできなかった宗麟が子だくさんとなり、北九州6か国もの最大版図を築けたという事実は、デウスの加護だと受け取られ、幸運をもたらす存在として宣教師の存在は絶対的なものになりつつありました。

修道士のルイス・デ・アルメイダも、宣教師を領内から追放するよう嘆願する日本の僧侶らに対して、宗麟が次のような発言を行っていたことを記録しています。

 

「予は十二、三年来、司祭らを領内に置いており、彼らが領地に来る以前は3ヶ国の領主であったが、今や3ヶ国の領主であり、また以前は金銭に窮していたのが、彼らが来た後には日本のどの国王よりも裕福になり、続いて予の家臣らもそうなった。彼らのお蔭で何事も予に好ましくなった。何故なら切に望んでも得られなかった子息を得ることも叶ったからだ。」

引用元 「報告集 1564年10月14日書翰」より

 

宗麟のこの言葉を聞いた僧侶たちは、ぐうの音も出なかったことでしょう。

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