幕末日本の歴史江戸時代

【池田屋事件】って何だっけ?寺田屋事件や坂本龍馬暗殺とは別件です!

幕末から明治へ、日本が大きく変わろうと激しく揺れ動いた時代。小説でも時代劇でも、幕末を扱ったものは特に人気が高いそうです。幕末ものには興味があるし詳しくなりたいけど、似たような名前の事件が次々起きてなかなか覚えられない……という方もいらっしゃるのではないでしょうか。今回はそんな激動の幕末に起きた数々の事件の中から「池田屋事件」を取り上げて詳しく解説いたします。

池田屋とは?幕末の歴史的事件の舞台はどこにあった?

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幕末を取り上げたドラマや小説で、この時代のターニングポイントとなった重要な出来事として挙げられることの多い池田屋事件。いったいどんな出来事だったのでしょうか。まずは事件の舞台となった「池田屋」の基本情報と、当時の時代背景について整理しておきましょう。

池田屋とは何屋さん?どこにあるの?

池田屋事件が起きた池田屋とは、京都三条(現在の京都府京都市中京区三条通河原町東入ル中島町)にあった旅館です。

場所は京都御所の南側、鴨川にほど近い、三条大橋から徒歩3~4分の位置。現在も三条通り沿いに「池田屋騒動跡」の石碑を見ることができます。

池田屋事件の後、いったんは旅館として営業を再開しますが、間もなく廃業。その後、土地建物は人手に渡り、1960年頃まで残っていたそうですが、やがて建物も建て替えられ、現在では居酒屋となっています。

この場所で1864年7月8日(元治元年6月5日)の夜、当宿に潜んでいた長州藩や肥後藩、土佐藩などの藩士たちを新選組が奇襲するという大事件がおきました。

何が起きていた?池田屋事件の時代背景は?

時は幕末。1853年にペリー率いる黒船がやってきて鎖国体制に終わりをつげ、日本が大きく変わろうとしている頃のことです。

日本は江戸初期以来、200年以上もの間、鎖国状態にありました。

徳川幕府を中心とした政治体制も揺らぎ始めます。

開国を迫るアメリカの圧倒的な力と、その巨大な姿の前に名案もなく右往左往するだけの徳川幕府。人々は日々不安な毎日を送っていました。

それまで考えもしなかった、徳川幕府という絶対的な権力への不信感と、外国の存在。人々の心の中に様々な思いが交錯していました。

尊王攘夷とは?なぜ争いが絶えなかったの?

「尊王攘夷」とは、君主を尊び、外国をしりぞけるという考え方のことをいいます。君主を尊ぶという「尊王」という考え方と、侵略者に対抗する「攘夷」という思想が結びついてできた言葉です。

アメリカから黒船がやってきたとき、幕府にはこれといって策がなく、困った老中阿部正弘は名案を求めて各藩に意見を求めました。これを機に、地方でも「日本はこれからどうするべきか」といった議論が活発になります。

開国すべきか、外国船を追っ払って戦うか。

このまま徳川幕府に従っていて大丈夫なのか、幕府をつぶして天皇中心の日本を築くべきではないのか……。

ここに、これまで虐げられてきた下級武士たちの不満などが入り混じり、ついには「徳川幕府を倒すべき」という過激な思想を持つ者も現れます。

この事態を重く見た徳川幕府は、こうした思想を持つ者たちを制圧しようと画策。取り締まりが強化されていきます。池田屋事件はこの時代を象徴する事件となりました。

急襲!池田屋事件の経緯とは

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開国か鎖国維持か、倒幕か幕府維持か、様々な思いが交錯し揺れ動く日本。1854年3月に「日米和親条約」が締結し日本の鎖国体制が終わりを告げると、尊王攘夷の声はますます高まりを見せていきます。そして1864年7月8日、池田屋事件が起きました。事件の経緯について詳しく見ていきましょう。

池田屋事件勃発までの流れ

前の年の1863年、尊王攘夷を唱える長州藩を中心とした志士たちが計画したクーデターを、薩摩・会津藩らが阻止。京都から追い出すという「八月十八日の政変」が起きます。

薩摩藩といえば、開国と日本の近代化を問う島津斉彬公を藩主に持つ開国派。朝廷と徳川幕府を結び付ける「公武合体」を進めるべきと唱えている藩でもあります。

会津は古くから徳川家と縁の深い佐幕派(幕府を補佐する側)の藩。遠方ながら大軍を率いて京都の護衛職に就き、新選組を編成して京都の治安維持に奔走していました。

尊王攘夷を叫ぶ長州藩とは水と油。結果、長州藩士たちはクーデーターを成功させることなく、京都の町を追われます。

クーデターに失敗し、面目丸つぶれの長州藩。しかしこのまま引き下がるわけにはいきません。密かに京都に舞い戻り、あちこちに潜伏して機会を伺っていました。

一方の会津藩も、長州藩士たちの不穏な動きを察知しており、新選組を率いて京都の警備を強化していきます。新選組は京都の町中を昼夜なく歩き回り、時には武力を用いて長州藩士に関わる人々を摘発・制圧。ついに、一部の尊王派の志士たちが再びクーデターを計画しているという情報を入手します。その計画はどうやら、御所に火を放ち天皇を連れ去り、一橋慶喜ら佐幕派のトップを暗殺するというものだったようです。

これは看過できません。事は一刻を争います。

そして新選組はとうとう、長州藩を中心とした尊王派の浪士たちが、京都の町中の旅館で計画のプランを練っていることを突き止めたのです。

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