日本の歴史江戸時代

金と政治の柵で失脚した江戸幕府老中「水野忠邦」とは?豪気闊達の忠邦の生涯を解説

水野忠邦(みずのただくに)は、天保年間に老中だった人物です。賄賂や汚職が横行し、大凶作や飢饉が起こった上に、対外関係も不安定。内外共に政情が逼迫していたのです。日本の危機打開のために、大改革を断行するも失敗に終わり失脚しました。それでは、「水野忠邦」という人物がどんな人だったのかをひも解いてみたいと思います。

1.水野忠邦の生い立ち

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バブル景気は昭和から平成にかけてだけでなく、江戸時代にも起っています。周囲の反対を押しのけ、そのバブルを起こしたのが水野忠邦です。彼は、幕府財政が悪循環の一途をたどる中、江戸三大改革の一つ「天保の改革」を断行しました。改革者という一面の裏では、漆黒に染まった彼の本性が見え隠れします。そんな水野忠邦の生い立ちを見てみましょう。

1-1アグレッシブなエリート忠邦の誕生

水野忠邦は、寛政6(1794)年6月23日に、肥前国唐津藩第3代藩主水野忠光(ただあきら)の次男として生まれます。幼名は、於莵五郎といい諱が忠邦。兄芳丸が4歳で亡くなり、文化2(1805)年に世子となったのです。

実母で側室の恂(じゅん)は、忠邦が6歳の時に実家に帰され離れ離れに。その後、文政6(1823)年に逝去します。忠邦は母の形見を肌身離さず持っていたとか。後の、酷薄非情な性格は、この寂しさから生まれたのかもしれませんね。

ちょっと雑学

水野家は、家祖の忠政の娘お大が家康の母で、将軍家の外戚というエリート。忠邦の代までには、浮き沈みはあるも、格式高い家柄であることは事実です。

忠邦の前には、5代の忠之(ただゆき)が、奏者番、若年寄、所司代を経て、将軍徳川吉宗の時代に水野家初の老中になります。享保の改革で功績を挙げ、1万石を貰い6万石となるも、吉宗と対立したため罷免されたのです。その後は鳴かず飛ばずのようですが…。

1-2政治家人生の始まり

文化4(1807)年に第11代将軍徳川家斉(天保の改革の原因を作った)、世子家慶(いえよし)に御目見し、従五位下・式部少輔に叙位・任官します。文化9(1812)年に父忠光が42歳で隠居し、和泉守(いずみのかみ)と称し19歳の若さで第11代藩主となり家督を継ぎました。

この時代の大名の苦痛「藩財政の困窮」から、「鋭意改革」に取り組みます。幼いころから勤勉で読書好き。読書は、天保の改革中の多忙時も、欠かすことは無かったとか。臣下にも積極的に本を読ませたほどです。

文化12(1815)年には、大名などが将軍に謁見する際、姓名や進物を伝える「幕府の奏者番」に就任します。この奏者番は、政治に直接関係は無いものの、幕府重職へ近道の役職です。水野家4人目で、祖父忠鼎(ただかね)以来の抜擢でした。忠邦は、立身出世を目指し、強欲な人生を歩みます。

2.家臣との軋轢と出世欲の狭間で

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このころは、重職への強い思いしか無く、出世に従い出費が増え、藩財政が逼迫。藩政が行き詰まり藩家臣団との軋轢が起こります。「出世が叶えば藩も潤い、家臣たちの暮らしも楽にできる。」と思っていたようです。出世欲の塊で、檜舞台で活躍したかっただけという人も…。

2-1出世のために捨てる領地

唐津藩には外国船村策の一環で長崎警護役が課せられ、重職には就けず、出世には唐津からの脱出が必須でした。さまざまな工作により、文化14(1817)年に見事に唐津を脱出し遠州浜松藩へ転封を勝ち取ります。唐津の25万3000石でも家臣の生活は苦しいのに、15万3000石へと減るため家臣たちは猛反発し諫言するも忠邦は聞き入れません。

引っ越しにも巨額の費用が掛かり、藩財政の担当者で家老の二本松大炊は、責任を感じ自決します。忠邦は大炊に翻意を求められたとき、「幕政の檜舞台で活躍するのが、畢生の願いだ!」と言い放ったようです。

2-2 賄賂老中水野忠成との出会い

江戸時代の若い大名たちは皆、「青雲之志」を抱きます。忠邦は徳川家の外戚で、中興の英主忠之の活躍もあったエリート。自身も聡明で行動力があり、「青雲之志」を抱くのは自然なことで思いは人一倍深かったようです

国替えの一件で、忠邦の名は幕閣にも広まっていました。同族で権勢家の老中水野忠成(みずのただあきら)は、スリよって来る忠邦を引き立て重職への道を築いてくれたのです。忠成の力が無くして、忠邦の出世は皆無だったと断言できます。この男は曲者で、賄賂に塗れており、金権腐敗政治の権化と目されていました。忠邦も賄賂でのし上った人物で、現に唐津藩からの移動の際、一部が天領になっており賄賂に使ったとの疑惑を持たれています。

3. 金権腐敗政治家へまっしぐら

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忠邦の、出世へのあくなき意欲は増すばかり。苦労はあるも忠邦は軌道に乗り、大坂城代、京都所司代、西丸老中、本丸老中へと昇進コースを歩みます。猪突猛進ぶりは凄まじく、最終的には老中首座という幕府職制のトップの座に昇りつめたのです。

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