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幕末の政局で奮闘した四賢侯の一人「松平慶永(春嶽)」を元予備校講師がわかりやすく解説

江戸時代後期、幕府や諸藩は危機的な財政状態を立て直すため、藩政改革を実施しました。その中でも福井藩主松平慶永(まつだいらよしなが、号は春嶽)は、四賢侯として世間から高く評価されます。松平慶永は、福井藩を率い、雄藩が連携して国の政治を動かす公議輿論の政治を目指して奮闘しました。今回は、幕末の激動を生き抜いた松平慶永について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

松平慶永の出身や生い立ち、藩主就任のいきさつなど

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松平慶永は、はじめ、御三卿の一つである田安家に生まれました。田安家は、将軍を出すことも出来る家柄です。8男だった慶永は生まれたときから養子に出されることがほぼ決まっていました。当初、伊予松山藩に養子に出される予定でしたが、急遽、福井藩の養子へと変更されます。福井藩主が若年で急死したためでした。

松平慶永が生まれた田安家

1716年、7代将軍徳川家継が8歳で死去し、徳川宗家の血筋が断絶しました。かわって、紀州藩主の徳川吉宗が徳川宗家を相続します。吉宗は、徳川宗家を絶やさないため、御三家のように将軍を継ぐにふさわしい家を創設しました。それが、御三卿です。

吉宗の次男の宗武は田安徳川家(田安家)を、四男の宗尹は一橋徳川家(一橋家)を創設しました。さらに、9代将軍家重の重好が清水徳川家(清水家)を興すことで御三卿が出揃います。

田安徳川家からは、のちに寛政の改革を行う松平定信が出ていますね。御三卿の家格は御三家に次ぎ、徳川の姓と葵の紋所を使用することが許されました。

慶永自身は、田安家3代当主徳川斉匡の8として誕生します。8男ということもあり、誕生早々に伊予松山藩への養子縁組が決められました。

福井藩主の急死

1835年、11代将軍徳川家斉の22男が福井松平家の養子になり、松平斉善となりました。斉善は養子になった1835年中に家督を譲られ、福井藩主となります。1838年4月、松平斉善は藩主となって初めてのお国入りをしました。

しかし、その後体調を崩します。生来病弱だった斉善は、参勤交代やその後の福井藩主としての政務で疲れたのかもしれません。福井に来てわずか3ヵ月後、斉善は19歳の若さでなくなってしまいました

藩主が急死したとき、跡継ぎがいなければ藩の領地は没収され幕府直轄となるのが通例です。しかし、兄で12代将軍だった家慶のはからいなどで領地没収を免れました。そのはからいとは、斉善の死の前に慶永が養子になったとするものです。

死の直前に養子を立てることは末期養子として認められていました。最終的に、慶永が福井藩主となることで決着します。

松平慶永が藩主となった福井藩とは

松平慶永が藩主となった福井藩は、かつての越前国のほぼ全域、現在の福井県の大半に当たる地域を治める藩でした。戦国時代には朝倉氏が統治した地域ですね。

戦国時代末期、現在の福井市にあたる北の庄を居城としたのが柴田勝家でした。賤ヶ岳の戦いで敗北した勝家は居城の北の庄城で自害します。関ヶ原の戦い後、徳川家康の次男である結城秀康が越前一国を与えられました。

福井藩の江戸時代中期以降の石高は時期によって変化しますが、おおむね30万石前後です。当初は50万石前後でしたが、お家騒動や分家によって30万石前後となりました。

19世紀には飢饉などに見舞われ、藩の財政が悪化。一揆も頻発したため、財政の窮乏化は深刻でした。

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