日本の歴史明治

5分でわかる「日露戦争」背景・経過・戦争後の影響などわかりやすく解説

九州北方に広がる玄界灘の真っただ中にある沖ノ島。この島の近海で日露両艦隊が正面からぶつかり合う日本海海戦が行われました。1904年から1905年にかけて行われた日露戦争は日本が列強の一国と正面から戦った大戦争で、日本海海戦は日露戦争の雌雄を決めた重要な戦いでした。今回は日露戦争の背景・経過・戦争後の影響などについてわかりやすく解説します。

日露戦争の背景となった欧米列強のアジア進出と日露の対立

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19世紀後半から20世紀にかけて、欧米列強は世界各地を軍事力で植民地化していきました。最初はヨーロッパから近いアフリカが主な対象となりましたが、次第に列強はアジアにも進出。日本を含む東アジア地域でも列強が争いを繰り広げていました。明治維新後、近代化を目指す日本は富国強兵をすすめ、欧米列強に負けじと東アジアに進出します。

19世紀末から20世紀初頭の帝国主義とイギリス・ロシアの対立

18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパ諸国は産業革命によって工業が発達しました。19世紀後半になると、大きく成長した巨大な企業(独占資本)が安い原料や製品を販売する市場を求めて国外に進出します。欧米列強は積極的に国外に進出し、軍事力を使って相手国を植民地にしていきました。こうした動きを帝国主義といいます。

ヨーロッパ最強の力を持っていたのがイギリスでした。イギリスはエジプト・南アフリカ・インドなどを中心に世界各地を植民地化。そのイギリスと真っ向から利害が対立したのがロシアです。

ロシアは高緯度にあり冬に港が凍結してしまうため、年中使用できる凍らない港(不凍港)を求めて南に勢力を拡大。このロシアの動きを南下政策といいました。しかし、ロシアは南下をしようとする都度、イギリスの妨害に遭い挫折します。そして、このイギリスとロシアの対立は日本を含む東アジアでも展開されました

日清戦争の勝利と三国干渉への譲歩

明治維新後、富国強兵政策を推し進めていた日本は朝鮮半島に進出しました。朝鮮は清国に従属する立場だったので、清国は朝鮮に進出する日本と対立します。

1894年、朝鮮国内で減税や排日を求める甲午農民戦争が起きると、日本と清国はともに朝鮮半島に出兵。両軍がにらみ合う事態となり、1894年7月25日に日清戦争が始まりました。戦争は近代化を進めた日本軍の圧勝に終わります。

1895年、日本は清国との間で下関条約を締結。下関条約では、清国が賠償金を支払うこと、台湾・澎湖諸島・遼東半島を日本に割譲することなどが定められました。

これに干渉したのがロシア・ドイツ・フランスです。三国は日本に遼東半島の返還を要求。結局、日本はこの圧力に屈し遼東半島を返還しました。ロシアが三国干渉を仕掛けた理由は、遼東半島をロシアが支配したいと考えていたからです。

ロシアの東アジア進出と満州占領

日清戦争で清国の弱さが白日の下にさらされると、欧米列強は中国進出を加速させます。欧米列強は清国に迫り、租借地の設定や鉄道敷設権の確保、鉱山の取得などを強引に推し進めました。日清戦争に敗北した清国には欧米の要求を拒否する力は残っていません。

清国の民衆は欧米の強引な姿勢に怒りを募らせました。民衆の怒りを背景に「扶清滅洋」を掲げて各地で蜂起したのが義和団です。義和団は反キリスト教と欧米勢力の追放(排外主義)を掲げ、各地で外国人を襲撃しました。

義和団は1900年6月に北京を占領。清国の最高権力者だった西太后は義和団を鎮圧せず、かえって義和団と手を結んで列強に宣戦布告します。イギリス・フランス・ロシア・日本など8カ国は共同で出兵し、北京を占領しました。

義和団事件が終息した後、各国は兵を引きましたがロシアは満州を事実上占領し、居座ってしまいます。その結果、ロシアの朝鮮半島への影響力が強まりました。

日英同盟論と満韓交換論、政府を二分した激論とは

ロシアの満州占領と朝鮮への影響力増加に対し、日本政府内部で意見は2つにわかれました。元老の伊藤博文井上馨らは、ロシアの満州支配を認めるかわりに日本の韓国支配を認めてもらう「満韓交換」を主張しました。日本とロシアでは国力に差がありすぎるから、ロシアと戦争すべきでないと考えたからです。

これに対し、元老の山県有朋や首相の桂太郎、外務大臣の小村寿太郎は「日英同盟」を主張しました。イギリスとロシアは世界各地で対立しており、ロシアに対抗するためイギリスの支援を得ることができると考えたからです。

結局、日本政府は日英同盟を選択しました。日英同盟でイギリスは、日本とロシアの戦争に直接参加はしないものの、他の国がロシア側に立って参戦したら、イギリスは日本側に立って戦うと約束します。こうして、イギリスの後ろ盾を得た日本はロシアへの対決姿勢を強めました

日露戦争の経過、日本はいかにして大敵ロシアと戦ったのか

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1902年、イギリスと日英同盟を結んだ日本はイギリスの支援を受けてロシアとの全面対決に踏み切りました。日本はイギリスやアメリカの協力によって、巨額の戦費をかき集めます。その一方、国内では根強い戦争反対の声がありました。戦いが始まると日本軍はロシア軍に勝利を重ね、1年後の講和条約にこぎつけることに成功します。

日露戦争前後の国内世論

日露戦争は日清戦争と異なり、国論が二分した戦争でした。東京帝国大学七博士は桂首相や小村外相に対し、開戦を主張する意見書を提出します。近衛篤麿らは対露同志会や黒岩涙香の「万朝報」も主戦論を展開しました。

一方、キリスト教徒の内村鑑三はキリスト教信仰をもとに非戦・反戦論を唱え、「万朝報」を退社。幸徳秋水堺利彦ら社会主義者も平民社を結成し反戦論を展開します。

もっとも有名な反戦論者は歌人の与謝野晶子でしょう。与謝野晶子は「明星」に「君死にたまふこと勿れ」の詩を掲載します。このように、日露戦争直前まで国論は二分しますが、政府は日露戦争開戦の方向にかじを切りました。

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