- 勝海舟ってどんな人だったの?
- 江戸幕府の重臣だった勝海舟と坂本龍馬の出会い
- 倒幕派とも仲が良かった勝海舟
- 明治時代にも大臣になった勝海舟
- 勝海舟の生い立ち_自由の人勝子吉の息子
- 勝海舟と海軍軍船との出会い_咸臨丸(かんりんまる)で渡米
- 古い幕府の秩序、論理にこだわらず、広く世界を見据えた勝海舟
- 攘夷派の坂本龍馬を改心させた正論
- 江戸末期における勝海舟の存在
- 歯に衣着せぬ勝海舟の姿勢_今のビックマウス
- 江戸幕府海軍を率いる軍艦奉行としての勝海舟
- 勝海舟の倒幕派とのつながりが活きた江戸攻撃の回避
- 勝海舟の大きさは明治維新後も活かされる
- 明治維新の仕上げを担当した勝海舟と西郷隆盛
- 最後の交渉で徳川慶喜の蟄居と領地変換が決まる
- 今必要な勝海舟の柔軟さと先見性
この記事の目次
勝海舟ってどんな人だったの?
勝海舟は、通称は勝麟太郎と言い、旗本の勝小吉の長男として1823年(文政6年)に生まれました。安房守を名乗り、幕末には幕府の軍艦奉行となって海軍を率い、神戸に海軍操練所を設け、そこには坂本龍馬も所属していたのです。江戸幕府の幕政の要職にありながら、江戸幕府がすでに役割を終えていることを公言し、長州の桂小五郎、薩摩の西郷隆盛などとも交流を持つ、幕臣として異色の存在と言えた人物でした。剣術も免許皆伝でしたが、蘭学、操船術を学んだことから、幕府の咸臨丸でアメリカを訪れ、西洋の実情を肌に触れ、帰国後は軍艦奉行になります。
明治維新後もその才能が認められて、政治家として参議(今の大臣)になり、初代の海軍卿(後の海軍大臣)に抜擢を受けたのです。後には枢密顧問官に任じられ、伯爵にもなっています。
江戸幕府の重臣だった勝海舟と坂本龍馬の出会い
勝海舟は、軍艦奉行という幕府の重臣でしたが、父小吉と同様に江戸っ子らしい気骨を持った人物で、人が言いにくいことも平気で口にしたと言われています。今でいうビックマウスと言えるでしょう。蘭学を学び、海外事情に詳しく、実際にアメリカにも行ったことから、当時反幕派の主張する攘夷(外国船打ち払い)を批判する開国派として有名になったのです。そのために攘夷派から狙われています。
坂本龍馬も、勝と初めて会った当時は攘夷派で、勝海舟の自宅に暗殺のために押し掛けました。ところが、逆に勝から、日本の置かれた実情や海外の情勢を分かりやすく、丁寧に説得されてしまうのです。龍馬は考え方を改め、逆に勝海舟の用心棒として勝家に居候するようになってしまいました。龍馬はその後も勝の弟子として勝を守り続けたのです。
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倒幕派とも仲が良かった勝海舟
勝海舟は、京都にも幕府の重臣として、また神戸の海軍操練所の所長として訪れますが、その間に、長州の桂小五郎(後の木戸孝充)や薩摩の西郷隆盛らと交友を結びます。攘夷はすでに時代遅れであることを教えるとともに、幕府もすでにその役割を終えていることを主張したことから、その柔軟性に彼ら倒驀派からも尊敬されたのです。ドラマなどでは、龍馬が、土佐の人切りと言われた岡田以蔵に勝の用心棒をさせたシーンも描かれていますが、これはさすがに記録には残っていません。
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明治時代にも大臣になった勝海舟
勝海舟は、明治時代になって、幕臣であったにもかかわらず、参議になり、初代の海軍卿にもなっています。後には、函館の五稜郭に立て籠った幕臣榎本武揚(たてあき)も海軍卿からさまざまな大臣の要職に就きますが、その先鞭をつけた形です。そのせいか、日本海軍は比較的自由な気風があり、海外事情にも通じた山本五十六などの人材を排出しています。勝の自由な姿勢が影響を与えたのでしょう。
勝海舟の生い立ち_自由の人勝子吉の息子
勝海舟の父親であった勝小吉は、映画でもよく描かれていますが、貧乏旗本でしたが、江戸っ子らしく、自由な生活を楽しんだ人でした。その影響で、勝海舟(麟太郎)も同じような竹を割ったような性格をしていたのです。父小吉は、生涯貧乏旗本で終わりますが、麟太郎は蘭学、操船術などを率先して学んだことから、出世の道が開かれました。彼自身がその道を選んでおり、やはり先見の明があった人物と言えるのです。
勝海舟と海軍軍船との出会い_咸臨丸(かんりんまる)で渡米
蘭学と操船術を学んだ勝海舟は、当時そのような人材が幕府に少なかったことから、1860年に幕府の遣米使節団(日米修好通商条約の返礼使節)が乗る派遣船の咸臨丸に乗船を命じられます。これが彼が世に出るきっかけでした。この咸臨丸には、福沢諭吉も乗っていましたが、生涯あまり仲はよくなかったようです。咸臨丸は、もともとオランダで作られた三本マストの蒸気軍艦で、ペリーの黒船の帰国航路につき従う形でアメリカまでいきました。
勝海舟は、この咸臨丸によるアメリカ派遣から帰ってきますと、幕府の軍艦奉行に任命されます。口は悪くても、彼ほど軍艦についての知識を持ち、海外情勢に通じた人材は幕府にいなかったのです。
古い幕府の秩序、論理にこだわらず、広く世界を見据えた勝海舟
勝海舟は、蘭学と軍艦の操船術に高い知識を持つとともに、同じ幕末の奇才と言われた佐久間象山と同様に古い秩序にこだわらず、広く世界を見据えていました。しかも、自由に発言するという面でも似ていたのです。但し、勝海舟は、理論だけでなく、軍艦の操船術の実務に非常によく通じていました。佐久間象山がどちらかというと、理論面に片寄る傾向が強く、開国論を主張していたものの幕府の無策を批判したため、幕府ににらまれ、吉田松陰の黒船乗船事件に連座して、国元の信州松代に蟄居されられます。
それに対して、勝海舟は、具体的な開国政策を中心に献策を行い、修好通商条約を結んだ幕府の政策の正しさを広めようとしました。そのために、口は悪いものの幕府の立場を直に批判しなかったために、軍艦奉行に任じられたのです。しかし、勝海舟は、すでに幕府の統治能力が無くなっていることをよく知っており、それ故に、坂本龍馬も弟子にし、西郷隆盛、桂小五郎とも付き合うようになったと言えます。
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