- 18世紀末に現れた外国船と異国船打払令
- 18世紀末に始まった外国船の日本近海への接近
- ロシアが正式な通商をするように要求して長崎に姿を現す
- 1808年10月のフェートン号事件
- 幕府の異国船打払令の発令
- 江戸時代後期の外国船への対応姿勢
- 異国船打払令の撤回にいたる
- モリソン号事件における幕府の姿勢に批判が起こる
- 中国の清王朝がアヘン戦争で英国に敗れる衝撃と異国船打払令の撤回
- 東アジア情勢の変化とその鎖国への影響
- ロシアの南下政策による影響
- もともと清王朝、朝鮮王朝も鎖国をしていた
- アヘン戦争の敗北の激震は異国船打払令を打ち砕く
- 黒船に乗ったペリー提督の来航
- 異国船打払令の廃止と鎖国の政策変換によって日本の近代国家への道が開けた
- 視野の大切さを教えてくれた「異国船打払令」は今の日本に大切
この記事の目次
18世紀末に現れた外国船と異国船打払令
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1792年にロシアのラクスマンが北海道の根室に来航し、通商を求めてきます。しかし、江戸幕府は鎖国を理由にこれを断りました。幕府では、19世紀初期の文化年間に難破したような外国船に対しては、燃料になる薪(まき)や水などを提供するように薪水給与令を出しています。しかし、通商などには鎖国令を厳格に適用して拒絶していたのです。
しかし、ラクスマン以降には通商を正式に求めてきたり、強引に入港しようとする外国船が現れたことから、幕府は1825年についに異国船打払令を各大名に命令しました。この命令には、当時の江戸幕府が世界、とくに欧米社会における近代化の動きを理解していなかったことが大きな要因としてあったのです。
そのため、この異国船打払令はわずか17年後の1842年には廃止されることになりました。この間の動きを中心に異国船打払令について見てみましょう。
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18世紀末に始まった外国船の日本近海への接近
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外国船の来日はすでに1792年から始まっています。そのため、遭難しそうな外国船が燃料の薪や水を求めて来ることがあり、文化年間に薪水給与令が出されたのです。これを文化の薪水給与令と言っています。すなわち、政治的な要求がなく、非常時と判断したときには入港を許して薪水や食糧を提供するようにしていたのです。
しかし、1792年に来航したラクスマンは遭難して漁民を救出していたとはいえ、通商という要求をしたので、幕府はすぐに拒絶したのでした。
ロシアが正式な通商をするように要求して長崎に姿を現す
さらに、その後もロシアは1804年に正式な外交使節としてレザノフを長崎に派遣し、通商を求めてきたのです。この当時のロシアは、国家そのものが寒冷な国土であったため、西では南下政策を推し進めています。黒海沿岸のクリミア半島への進出を目指してオスマン帝国とクリミア戦争を繰り返していました。そして、ロシア帝国は東側でも南下政策を展開します。ロシアと中国の国境にある黒竜江では中国の清王朝と小競り合いを繰り返していました。さらにその東の海上に浮かぶ日本列島を支配している日本に対しても通商条約の締結を求め、サハリン(樺太)などにも進出しようとしていたのです。
そのため、幕府では樺太、北方領土などの調査を間宮林蔵などに調査を命じていました。しかし、この当時の幕府はまだロシア帝国の大きさ、強さについては知らなかったのです。
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1808年10月のフェートン号事件
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さらに、1808年には、イギリス軍船のフェートン号がオランダ船を追って強引に長崎に入港して、薪水を要求しました。これをフェートン号事件といっています。このときには幕府は、長崎奉行を通じて燃料や食料を与えて立ち退かせているのです。
その後も、1824年に水戸藩の大津浜や、鹿児島と沖縄の間にある宝島などで、イギリス船が強引に入港して薪水や食料を求めたり、食料を強奪するという事件が起こりました。そのため、幕府では外国船に対する警戒が強まったのです
幕府の異国船打払令の発令
この当時の幕府は、オランダなどからもたらされる西洋文明に対する情報が集まっていませんでした。逆にそれらの情報を詳しく知っていた蘭学者の渡辺崋山や高野長英などを取り締まったり、来日していたシーボルトなどを地図を持ち出しを理由に国外退去させていたのです。この時点で幕府は、日本の沿岸に頻発するようになった外国船を容易に撃退できると信じていました。世間知らずといえるでしょう。そのため、大津浜事件や宝島事件が起こった結果、無謀にも沿岸に接近する外国船は見つけ次第、砲撃するように命令を出したのです。これを異国船打払令といい、「無二念打払令」や「外国船打払令」とも言います。
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江戸時代後期の外国船への対応姿勢
しかし、江戸幕府の姿勢は見てきたように、強固な鎖国令一辺倒ではありませんでした。文化の薪水給与令から異国船打払令へ、そしてまた次に説明するように、天保の薪水給与令へと変わっているのです。